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18歳の私が香港で重慶大厦に宿泊した話

クリスマスが近づいていた2023年の12月、突如として父から市場調査の仕事を託された私は福岡空港を飛び立ち、約2000キロ離れた香港の街へと向かった。単独での海外渡航は初めての経験、そんな私の宿泊先があれほどディープな場所だとは露知らず…。

重慶大厦の正面玄関

父から渡された宿泊先の情報にはゲストハウスの名称と座標、予約番号などが載っていたが、肝心の建物名の記載がなかったため明確な場所が分からず、暗くなったネイザンロードをうろうろと彷徨っていた。Googleマップで当該ゲストハウスのレビュー投稿を遡ると、どうやら重慶大厦(チョンキンマンション)という雑居ビルに入っているらしい。

それは私が先ほどから「まずここはあり得んだろう」と消去法的に排除して、一歩たりとも踏み入れなかったビルじゃないか。

ビルの地上階であるG階にはいくつもの両替所と安っぽいの電子機器を売る店が並び、雑踏を進むと果物やインド料理、アフリカ料理の店なども存在している。配管パイプやケーブルが露出した天井と、少し薄暗い通路。多くの人で混み合うG階の様子は想像以上に怪しい雰囲気が漂い、まるで迷宮のようだ。やたらとこちらを見つめてくるインド人の従業員が大勢いる中、警戒心マックスでスーツケースを引き、ゲストハウスのフロントを探すこととなった。

重慶大厦G階(早朝に撮影したため人は少ない)

バックパッカー御用達の安宿迷宮ビル、重慶大厦には数十から数百(情報源によって差がある)ものゲストハウスがひしめき合い、内部構造は極めて複雑。混沌と化した建物内の雰囲気は、まるでかつて存在した九龍城砦を彷彿とさせる。警備が不十分であった2000年以前には犯罪の温床として知られ、「悪の巣窟」とまで呼ばれていた。

このビルはひとつの大きな雑居ビルのように見えるが、実際には5つの棟に分かれており、各棟に2つのエレベーターが備わっている。しかし左右のエレベーターで停止階を奇数階と偶数階に振り分けている上、同一階内で棟を跨ぐ横移動が基本的にできないなど複雑過ぎる構造が足枷となり、非常に多くのゲストハウスが存在するこのビルの中で案内図も無しにお目当てのフロントを探すことは困難であった。

建物の構造やエレベーターの数など全く知らないままダンジョンのような建物内を彷徨い続けた私は、いつの間にか変な場所へと辿り着いてしまう。狭いエレベーターホールの窓から外を覗くと、雑然としたビルの吹き抜けが。

吹き抜けの景色

絶対にこのフロアではない。諦めてG階へ戻り、警備員やSIMカードを売るインド人に尋ねてみる事にした。聞き込みの末、なんとかしてフロントがある棟と階を特定。入り組んだ通路の先にあるエレベーターへ。ガタピシと音を立てながら6階へと向かう。

不穏な静けさが漂うエレベーターホールを進み、ようやくその奥にゲストハウスのフロントが見えた。入口には堅牢そうなガラスの扉があったがロックが掛かっており、フロントには誰も居なかったことから呼び出し用のチャイムを押してみる。しばらくすると、

どう見ても風呂上がりな格好の女性がひとり、面倒くさそうな顔で隣の扉から出てきた。

髪の濡れた東南アジア系のその女性にチェックインの手続きを頼み、鍵を受け取って部屋へ案内してもらう。

3Dスキャンアプリ、Scaniverseで撮影した客室。

案内というよりも、給湯器の説明だけがあれば事足りるような、窓すらも無い最低限の客室である。その日の晩、亜熱帯気候の香港とはいえ12月当時の気温は10℃前後、寒くなってきた私はエアコンをつけようとした。しかし…

エアコンが起動しない。

リモコンの反応が無くおかしいと思い、電池の蓋を開けてみる。

おい!!

これでは全く暖が取れないじゃないか。しかし起動しないエアコンの送風口をよく見てみると、その姿はいかにも悍ましいものであった。

汚い汚い汚い、これまでの人生で見たエアコンの中で最も汚い。仮にこのエアコンが起動出来たとしても、私はこれを金輪際使用したくない。仕方なく部屋が冷えたままシャワーを浴びることに。長方形の部屋の一角には、小さなシャワー室がひとつ備わっている。東南アジア周辺の宿ではよく見かける、シャワーが付いているトイレのようなものだ。

トイレットペーパーの位置が私の目線よりも高い。

先程の従業員の方に教えてもらった通り、給湯器の電源スイッチを入れ、シャワーを浴びよう。凍える身体を震わせつつ、お湯が出るのを待った。しかし…

全くお湯の出る気配がない。

出てくるのは冷水ばかり。ただでさえ部屋が寒いにも関わらず、少したりとも温まらないではないか。温度調節用らしきノブがあったが、回しても全く変化がない。挙句の果てにはノブごと外れてしまった。埒が明かないためそのままシャワーを浴びるが、あまりの寒さに歯がガチガチと震える。結局最後までお湯が出ることは無く、私はシャワー室を出た。そんな私は、またある事に気がつく。

ヘアドライヤーも無い!!

なぜよりにもよってシャワー後に気づく…。こればかりは確認していなかった私にも非があるが、部屋のどこにもヘアドライヤーが見当たらず。(東南アジアを含め、このようなゲストハウスではフロントにてヘアドライヤーを借りることが出来る。現在よりも遥かに海外旅行初心者だった当時の私は気づかなかった。)

結果として気温10℃まで冷え込む中、エアコンも機能せず、濡れた髪のまま布団に包まり、震えて眠ることとなってしまった。


滞在2日目。散々弱り切ったまま眠った昨晩であったが、幸いにも体調を崩すことは無く、頼まれていたひと仕事を終えて帰宅。ヘアドライヤーを借りられるか尋ねるべく、フロント横の呼び出しベルを押すと、昨晩の女性従業員がまた、面倒くさそうな顔で出てくる。

ヘアドライヤーを確保し、昨晩機能しなかった給湯器について聞いてみた。すると彼女曰く、給湯器は電源を入れた後、予熱のために時間を置いて待つ必要があるらしい。(翌年には東南アジアを転々と旅し、数多くのコンドミニアムに宿泊したが、たとえ高級住宅であっても、予熱に15分以上かかる給湯器が設置されている場所がかなり多かった。日本の多くの一般家庭で普及している給湯器は、どれも性能が優れているということだろうか。)

給湯器のスイッチ(なぜか異様に固い)

給湯器が機能することを確認し、替えの新しいバスタオルを貰えるか尋ねてみたところ、

『ここから適当に取っていいよ』

連れてこられたのはバックヤードのような部屋、そのロッカーに積まれていたバスタオルを取り、部屋へと戻る。セルフサービスのようだ。

ところで、昨日からやたらと上の階から物音がうるさい。きっと天井が薄く、足音がよく響くのだろうと思っていた。しかし人の足音にしては歩幅が小さすぎる気がする。突如聞こえた鳴き声に、私はその正体を確信した。

尋常じゃない量のネズミだろこれ。

現代の日本ではなかなか聞く機会も無い、屋根裏を走るネズミの足音。それがここ重慶大厦の一室では昼夜問わず四六時中聞こえ続ける。

トトト…スタスタスタドドタドタドタドタ チューチュー!!!! スタタタタタ…

本当にこんなのが鳴り止まない。不快感を通り越し、経験したことのない異空間に感動すら覚えた。

しばらくベッドで横になり、ひとり寛いでいると、どこからか異臭が漂い出す。それはどうやら部屋に設置された換気扇と空気口の奥から漏れ出しているようだった。恐らくネズミの糞などによるものだろう。しかしそんなもの放置するわけにもいかない。汚染されたホコリを吸い込むだけでも感染症の危険が十分にあるため、なんとかして換気扇と空気口を封印する必要があった。

そこで私は昨晩訪れた中華料理店のチラシと、お土産用に購入した新聞紙、さらには持参した絆創膏を使い、

空気口
換気扇

このように両者を封印、空気の流入をせき止めることに成功した。さらに部屋のドアを全開にし、シーリングファンを起動させてしばらく待つと、残った異臭は全て消え去った。ダンジョンのミッションか何か?

裏口からの景色。画像右が重慶大厦の南側の壁。

滞在3日目。重慶大厦の出入口は正面玄関のみならず、いくつかの裏口が存在する。南側の裏口から出ると、そこは一部ゴミ収集のために使われているらしい空間だった。無秩序に張り巡らされた大量のケーブル、地面には乱雑にゴミが散らかり、辺りには異臭が漂う。人通りも少なく、長く居ていい場所では無い。(この裏口の壁に「安ければ安いほどいい」という日本語の落書きがある話を、𝕏にて発見)

依然として部屋の温度は低く、ヘアドライヤーの温風で部屋の空気を温めるなどして、少しばかり寒さを凌いでいた。ネズミの足音が鳴り止まない為、就寝時にはノイズキャンセリングイヤホンが重宝される。

就寝前の寝床

滞在4日目。ネイザンロードに建つ商業施設の上層階から、重慶大厦を見下ろした。2004年に完了した大規模な改修工事を経て、ネイザンロードに面したビルの西側はスッキリとした外観になっている。しかし隣のビルとの隙間を見てみると、大量の配管パイプとエアコンの室外機がひしめき合う、まさにTHE・香港建築の姿が今でも残っていた。1961年の完成当時は香港の一等地に建つ高級住宅ビルとして知られていた重慶大厦は、時が流れる中、様々な人間が出入りし、その時々の住人の都合によって手を加えられ、汚され、常に変化し続けてきた垢のようなものが、今日に至るまで洗われることなく蓄積されてきたようにも見える。複雑に絡み合った建物の構造は、今でもなお過去の記憶が残り、その生きた古代生物のような存在が、「香港一ディープな場所」と呼ばれるのも腑に落ちるだろう。

ビル北側の隙間

初めは暖かい給湯器のお湯も数分使ううちに冷たくなってしまうが、4日目にもなるとコツを掴み、そこまで辛い思いをすることも無くなった。窓も無い小さな部屋だが、住めば都である。

滞在5日目。G階の通路がまだ静かな朝の8時、私は重慶大厦を後にした。あの煌々とネオンが光る香港の街は、昨今の再開発によって生まれ変わりつつある。今後はよりシンプルな都市へと変わっていくのだろうか。諸行無常の世の中、時代に合わせて変化し続けることは大事なことであり、名残惜しくとも仕方がないだろう。いつかは変わってしまう世界だからこそ尊いものである。今はただ、まだ存在する21世紀第一四半期の景色を存分に味わうことが、私たちの旅を豊かなものにするのかもしれない。

朝の正面玄関

重慶大厦は宿泊所として非常に立地も良く、物価の高い香港の中でも低価格を実現している。進化を続ける香港の街、この興味深い、カオスな迷宮の発展を今後も期待しようじゃないか。

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