夏休みにまつわるエトセトラ
あ〜〜〜夏休み。
まさかこの歳になっても夏休みがあるとは思っていなかった。夏休みであっても賃金は発生するから何もしていない。一人で生きていくには十分な額もらえる。ただ、この間税金関連支払っていたら生きていくのにこんなにお金がかかるのかと思った。Creepy Nutsの「紙様」という曲が頭をよぎる。それはまぁいい。
夏休みって楽しいイメージある気がするけど、自分の場合「特別」楽しいものの印象があまりない。それは恐らく自分は学校が、日常が好きだからだと思う。いつもの楽しいの延長線上。夏休みイベントももちろん楽しいけど、いつもの楽しいのうちの一つだった。
今もみんな(友達)働いている中、自分は休みだ〜とか最初のうちは思っていたけど、徐々に働きてえと思い始めた。学生の頃も夏休み後半には徐々に勉強したいとか、友達と会いたいとか思っていた気がする。夏休み自体は楽しいけど、毎回何をするのかを試されている気がするのだ。
夏休みについて二つ思ったことがある。
一つはタイムスリップ理論、二つ目はクリエイティブ理論。両方とも自分で思いつきで書いているから本当はこんな理論などは無いのだけど。っていうか理論って言葉で形容していいのか。
一つ目はよくおっさんとかがいう、「小学校に戻って〜したい。」みたいな話である。あれは要は今の自分の記憶のまま、頭脳のまま小学校とか中学校に戻って無双したい。みたいなしょうもない話であるが、あれって本当にタイムスリップしたとしても活躍できるのかが疑問である。結局いつも通りの日常を過ごす、当人にとっては懐かしむだけで終わってしまうんじゃ無いかっていう話。まぁタイムスリップが実用化されていないのだからそんなこと確かめようもない荒唐無稽な話だが、あの話の本質はあの時代楽しかったとか、後悔があって、みたいなことなんだと思う。この歳になると昔は良かったとか、〜学生に戻りたいみたいな話がちらほら出てきて嫌だなぁと思う。自分はどの時代にも戻りたくない。嫌な思い出があるからじゃなくって今が一番楽しいからである。ずーっとそう思って生きてきたからあまりタイムマシンが欲しいと思ったことはない。強いて言えば小学校の頃の担任を一発ぶん殴りに戻りたいくらい、タイムマシンができた暁には実行しようと思う。
二つ目のクリエイティブ理論であるが、夏休みはクリエイティビティが試されている気がするのである。自由研究なんていう宿題は、多くの教員がまともな研究をしたことがないから(評価できないから)「研究」という言葉で括るのはさっさとやめて「クリエイティブ大喜利」にでもさっさと改名した方がいい。(教員がクリエイティブかということは一旦置いておこう。)夏休みをどう過ごすのかはその人のクリエイティビティにかかっている。子どもであれば親の財力とかも関わってくるであろうが、あまりある時間をいかに過ごすのかは、結局のところ自分に委ねられている。
まさに今の自分がそうだ。今の自分が昔と違うのは、誰かに何かを頼まれているわけではないし、宿題があるわけではない。仕事が始まるあと数日まで本当に「自由」に使っていいわけである。(もちろん財力の限界はあるが)「自由」は本当に人を悩ませる。ある程度制限などがあったほうが考えるきっかけになったりするが、本当に自由に何をやってもいいといわれると何をしていいかわからなくなるジレンマを抱えている。そうこうしているうちに夏休み二週間目は終わろうとしている。もったいない。自分がやれたことなんて、忙しくて会えていなかった人と会ったくらいだ。それはそれで楽しかったけど。結構触発された。
やったことはもう一つだけある。インスタグラムを再開した。留学を機に初めて留学を機にやめたインスタグラムだったが、深夜徘徊して撮った写真をあげた。誰かに見てもらえた気がしてなんだか嬉しくなった。それ以来また写真を撮るようになった。自分が思うのは写真は自分が今見ている光景を誰かに見せたいという思いが秘められていると思う。こうしてまた写真を撮り始めたのは見せたい誰かの存在を思い浮かべるようになったからかもしれない。この文章を書いているのもそう。誰かもわからない誰かに自分の光景、ではなく思考を読んでもらいたい、という思いが根底にはある。その志向性があればこそモチベーションになってクリエイティビティが発揮されるんじゃないかって思う。
留学を機に買ったカメラは、留学中にした旅行の資金難によって売ってしまった。またカメラ買って写真撮りたいなぁ。でも今はスマホでどれだけいい写真が撮れるかに挑戦してみてもいいかもれない。
あ、インスタグラムもやってます。
ID: ky_in_finderland