生卵とゆで卵と煮卵とひよことにわとりと
ムーンプランナーさんのウィッシュリストを生卵に例えたポストから、ぐるぐると考えている。
私は生卵を考えるのが苦手だ。小さい頃から、自分に、周りに、生卵を潰された経験がたくさんあるのだと思う。大人になってからも、とにかく自分で潰す。私の中にいる誰かが潰す。
と思っていた。そういう側面もあると思う。
だけどそうじゃない側面もあることに気づいた。
私、実は生卵けっこう持っているかもしれない。だけど、“願いが叶う”って、生卵がひよこになってにわとりになるようなことだと思っていたことに気づいた。無精卵の生卵からひよこが産まれるように信じて願いつづけることが叶える手段だと思っていた。
コンセプトに合った服も、いつか偶然出来上がるものだと思っちゃうし。
今の精神的な苦しさも、頑張っていれば抜け出せるはずと思っちゃうし。
だから、ひよこさえ産まれれば、勝手に成長してにわとりになって、ハッピーエンド!これが“願いが叶う”ということだと思っていた。ゆで卵や煮卵は人が与えてくれて、私はそれを食べるだけの役割だった。
私の中で、ウィッシュと行動が連動していない感覚がずーっとあって、うまく言えなくてもやもやしていた。
私は、生卵を茹でるという活動を放棄していた。
生卵を茹でれば、ゆで卵になる。最初は好みの茹で具合じゃないかもしれない。だけど、それは茹でなくちゃわからないし、案外おいしく感じる茹で具合もあるかもしれない。自分で茹でることに意味がある。
今、読んでいるとある本に、あなたが我慢したり期待したり自分を誤魔化しつづけたり思考を堂々巡りさせてるだけでは、現実は何も変わらないよ。あなたが何かを行うことで現実は変わるんだよ。ということが書いてあって、頭をぶん殴られたような気分になって、自分が生卵を茹でてないことに気づいた。
私の生卵。恐ろしく未熟で、そんなことを願っているの?というくらい幼稚で。だけど、その願いを叶えるために行動してあげること。願いが叶うことより、私の願いを叶えるために私が行動する、その背中を見せてあげること。それが信頼につながるんだと思う。
前にもnoteで書いたことあるなあ、と思い出すことがたくさんある。気づくこととできるようになることは別の話で、私はできるようになるまで、何度も同じようなことを書くのだろう。
最善を見つけるまで行動しないのではなくて、行動をしながら最善を見つけていく。自分のウィッシュのために行動するのは、正直怖い。だけど、生卵を見ていたら、どうやって行動しようか、たくさん案が思い浮かんだんだ。それを一つずつやっていけばいいと思う。そうやって夢中になれることを見つけたい。