映画「SF/ボディ・スナッチャー」をGYAOで見ました。解決が見えない。
映画「SF/ボディ・スナッチャー」を見ました。宇宙人の地球侵略ものです。といっても、派手に攻めてくるのではなく、人類に化けて少しずつ少しずつ街が侵略されていくところがこの映画では、描写されます。SFといえば、設定からしてSFなのですが、プロットの立て方はホラーでしたね(ゾンビ映画みたいでもある。といっても私はゾンビ映画多分見たことないけど)。この映画も登場人物に成長要素などありません。テーマは探ればあると思います。隣の人が実は宇宙人なのでは、という恐怖とかですかね。テーマなんて考えないで、見ている時の緊張感をら楽しめばいいと思います。テーマなんて考えなくても見られるとしたら、テーマというのは、物語に、カタルシスを与える要素でしかないともいえますね。
宇宙から地球に胞子がふってくる映像から物語は始まります。この映画「自分たちが襲ってくる存在は、実は宇宙人だった」という展開ではなく、最初から宇宙人ってわかっているんです(わかっているというか、予想がつく)。もちろん映画の人物達は何も知らないですが、視聴者はすぐわかっちゃいます(どういう風に人が宇宙人に乗っ取られるかは、次第にあからかになる展開になってます)。そのせいでしょうか、エリザベスやマシューたち映画の登場人物が感じているような、正体不明の恐怖を共有することはできなかったです。この映画で感じる恐怖は、見知っていた人間が姿形は変わらないのに、実は変化しているという人間の心の変化の恐怖でしょうか。他の人間たち(宇宙人に変わった)いつか襲われるという恐怖もありますね(「やつらが来る」の言って車に当たってくるおじさんを見た後には)。この映画では、宇宙人のせいになってますが、実際には何の理由もなく人が変わってしまうのともありそうですよね。そして、エリザベスは夫の変化を周囲に漏らすも、誰も信じてもらえない。視聴者は宇宙人のせいとだいたい予測しているので、エリザベスが本当ことを言っていることを知っていますが、映画内では誰にも信じられない。こうなることを考えると、怖いですね。エリザベスは、マシューに相談するも、自分の友達の精神科医に相談することをエリザベスに薦めます。マシューも信じてないのですね。マシューの視線で、エリザベスのようなことを言っている人を見ることになります。しかし、まだエリザベスの言っていることは信じてないです。マシューの友達の精神科医は、多分この時点でもう宇宙人になっているんですよね(まだ正体は表さないですが)。誰が正常で、誰が宇宙人に変わっているかはわからないので、そこの部分にも恐怖を感じますね。
ジャックとナンシー(SF小説好き)が経営しているお風呂屋さん(風俗とかではないです)で、マシューは繭化している人を見て、エリザベスが言っていたことが真実だと知ります。エリザベスを助けに行きます。マシューは警察や他の人も言いますが、誰にも信じられません。マシュー、エリザベス、ジャックとナンシーはどうにか潜んで暮らしていくわけですが、ついに乗っ取られそうになります(宇宙人が人を乗っ取っていく場面は、小出しにしていくんですよ)。逃避行が始まるわけですが、エリザベスは乗っ取っられ(乗っ取ってく過程の最終工程がわかります)。ジャックは、人の複製を作る植物の工場見たいのを潰します。だいたい、この逃避行あたりからもう個人の力じゃどうにもならなくなっていくんですよね。どうやって終わるのかなと思って見ています。カタルシスとして、工場破壊を見せたのでしょうが、ここを壊したところでもう街の人間のほとんどが宇宙人になっている状態で、そんなことをやってもほとんど無駄なんですよね。そのせいでしょうか、あまり盛り上がらなかったですね。最後は、乗っ取られないで生き延びたナンシーがマシューに声をかけて、マシューも乗っ取られていたことがわかって終わり。
面白くなくはないのですが、いまいち盛り上がらなかったです。相手の存在が大きすぎるんですよね。お風呂屋でさなぎ状になった宇宙人が手でくる辺りまでは面白かったのですが、その後、警察すらも宇宙人になっているような感じで、「これってマシューたちが解決するの無理じゃないか?」と思ってくると、「どうせみんな死ぬんだろうな」と思えてきて、緊張感を強く感じなくなってしまった(その後、本格的に街はすでに宇宙人に支配されていることがわかる)。追われている、マシューたちを見て、恐怖は感じますし、その点では楽しめてはいたのですが。何か具体的な目標(例えば特定の一人を殺せば、みんな死ぬとか)を見せてそれを解決する展開をして、目標達成するも結局支配される。オチは同じでも、こんな感じなら楽しめたかもしれない。主人公たちを危機にするのはいいけれど、全く解決策が見えないのはいけないな、と思った。
映像で素晴らしいと思ったのは、逃避行でマシューとエリザベスがナンシーたちと別れた直後、逃げている二人だけの足元を映すんです。もちろん街中なので、他の人もいて、他の人も足だけ。二人が誰かにぶつかる、その後の場面では、二人の胸から上の映像になります。しかし追ってくる人たちは足だけ、全然顔を見せない。ゾッとする恐怖を感じますね。二人の画像も胸から上から、カメラはより顔に近く寄ります。切迫感をより感じますね。物語の冒頭で、エリザベスは職場で東洋人っぽい人とぶつかります。そのあとエリザベスは振り向き、東洋人を見て、東洋人もまた見返しています。「これは何かこれからこの二人にあるな」と思ったのですが、何もなかったですね。この場面は何だったのだろう。
人面犬が出てくるところがありましたが、怖かったですが、後から考えると少し笑ってしまう。
マシューとエリザベスは衛生局の人なのですが、その知識を問題の解決に使うことはなかったです。知識ゆえに、問題を解決する場面とかあっても良かったな感じました。
「自分以外の誰かが、いつのまにか他の人に代わっていたら」という恐怖を描いた作品でした。怖いし、面白いとは思うのですが、物語としての起伏が少ない感じがしました。後半、希望が全然見えないので、物語の展開をグラフにした時上がることがないんですよね。上がらず、どんどん下がっていく。楽しませるには起伏必要ですね。登場人物はナンシー以外、みな宇宙人になってしまうので、人物の精神的変化はありません(宇宙人には変わってますが)。成長など要素での起伏もないです。成長するには、起伏が必要で、それがゆえに成長物語はエンターテインメントとして面白く感じさせるのでしょう。成長や変化がなくても、エンターテインメントは作れるけれど、成長や変化を無くすということは、成長や変化によって作らられる起伏に頼れないということですね。
「押井守の映画50年50本」を読むと、「見た目はそのままだけれど、人格が入れ替わっている」のは、戦後の共産主義の脅威のメタファーのようである(かなり端折って書いているので、詳しくは本を読んでください)。
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