人から言われてイラっとすることほど芯をついているよなと気付かされた話
ニュージーランドに来ても私の琴線に触れるものがないという現状を突きつけられており、どうしたものかと頭を悩ませていたんですが、
先日語学学校のスタッフや校長にそのことを話していると、自分が会話する相手に求める姿勢が「コンテンツ消費しようとしているみたい」といわれ、最初は「そんなことないよ!」ってイラッとしたんですが、実はそうかもと思い始めていました。
こういう人からみた私のレビューに対して、その人が私のことを全然わかってくれない!とか、的外れだ!と思うようなことでも、実は的を得ているのではないかと考え直すようになりました。
こと私の例で言えば、数年前から人との会話に楽しさを見いだせなくなり、親友と飲みに行っても楽しいことは楽しいんですが、何か劇的に感情がうごくかといわれればさざなみすら立たないみたいなことがありました。
自分でこの原因を突き詰めると「人がもつ異常性」みたいなものが好きであり、それを垣間見える瞬間というものが日常にはなく、人と話してもごく一般的な内容に落ち着いてしまうことがどうも好きでないことに気づき、いろんな人に会ってみたんですが、結局はそんな人はいなかったという経験があります。
しかし、これは私がある意味興奮したいがために人と話しているようであり、相手をコンテンツとして捉えていたのかもという指摘を受けて、ちゃんと誠心誠意接しているつもりでも、実はそうだったのかもと思いました。
そして、そういう異常性や自分の何か琴線に触れるようなものというものを知るためには表層的な会話ではなく、もう少し踏み込む必要があります。
しかし、数回あっただけではよほど意気投合しない限り特に日本人は感情を表現しないよなという前提が抜けていたように思います。
これは、私が割と感情をオープンにしがちなのと、そもそも感情の起伏が少ないということが起因するため、何か感情的になることが少ないので、感情をオープンにすることに抵抗がなかっただけなのかもしれません。
あと、普通に自己完結することが多すぎて、とてつもなく辛くて友人に相談したくなる、ということもごく僅かだったりします。
こういう私のベースラインからみる人間と、そのほかの人間の接する人間のベースラインというのが違うという観点が表層上理解しつつも、それを体や脳がちゃんと理解し、その上で人と接するということが意外に成り立っていなかったかもと思わされました。
その他にも何事にも既視感を感じることに関しても相談すると、いかに多面的に考えていると思っていも情報の処理方法が実は凝り固まっていることが多いよと言われました。
流石にむかっとはしてないんですが、これもなんか自分が目を瞑っていた部分かもなと思いました。
それこそその人が持つ独特な部分を見つけようとする姿勢はある種一つの方法にすぎず、多面的にその人を見ようとしているわけではなかったなと。
どうすれば人を多面的に見れるのか?というのは純粋に会話や接触する回数(表現変な感じになっているかも笑)を増やしていくことや、私自身のその人に対する興味関心を持とうとする姿勢が必要だなと。
自分が人に関する関心を失っていることや、変な期待をしていたこととか意外に欠陥がある接し方をしていたな〜と思っています。
変に期待しときながら失望するというえげつない自己中心の接し方をしていた気もし始めており、何か一つ前に進んだ気がする内容でした。
一応何にも興味が持てないことも相談して、とにかく何か続けてみるという前提でやってみることなども勧められました。
飽きてからも無理に続ける必要はないですが、何か続けられそうなことをしばらくやってみなよと言われ、今まで何をやってもすぐに想像の範囲内になり、これ以上の実用性が自分の中に見込めなくなると飽きてしまうという奇人だったんですが、
無駄という前提で何か続けることを勧められ、まぁアドバイスは素直にやってみるタイプなので何かしようかなと。
Blender学ぶとか、HTML/CSSちゃんとやるとか、マジックをやってみるとかいろいろ考えているんですが、とりあえずマジックとかかなと
最近はYouTubeとかでいくらでも素人ができるものがあるのでその辺からかなと
久々にちょっとしたエッセイ回でした。
では、また次回!
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