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すき焼きとおでん

反抗期は人よりかなり長かったと思う。僕には教育委員会で働く父、生徒会役員の姉がおり、さらに名字もめずらしかったから、地方都市の小さな町の中では生真面目な父の息子として、優等生な姉の弟として「先生の息子さん?先生にはお世話になっていて…」「お姉さんはすごかったよ、ユウトくんの将来も楽しみだね」なんて言われるのが日常茶飯事だった。どこか気を遣ったような、それでいて無邪気さを兼ね備えた期待の眼差しは小さな僕にはずっしりと重く、思うように応えられないモヤモヤもあってか、家の人々に当たり散らしてしまっていたのだ。小学6年生のとき「ユウトはきっと文句を言うから」と直前まで引っ越すことを告げられなかったし、高校3年生のときには「あなたたちには僕の気持ちなんて分からないんだよ」と両親に言い放った記憶がある。少なくとも11歳から18歳まで。イヤイヤ期も含めると人生の半分以上を反抗して過ごしてきたと言っていい。

大学進学を機に家を飛び出し、東京で一人暮らしを始めた。調布のとなりのとなり、国領駅から徒歩5分のワンルームだ。2階建てのそのアパートは一人暮らしの家として思い描いていたのとちょうど同じ大きさで、リノベーションしていたのだろうか、イメージしていたよりもかなり新しく見えた。この部屋で自分だけの暮らしが始まるのだ、と思うと胸が踊った。一人暮らしなるものに大きすぎる憧れと希望を持っていたわけだけれど、実際は…というと想像とは大きく違っていた。1日のスケジュールはこうだ。7:30、満員の京王線でぎゅうぎゅうに押しつぶされながら大学に向かう。8:30、眠い目をこすりながら1限に出席する。18:00、部活がある日はキャンパスを移動。22:00、部活を終えたくたくたの体でなんとか電車に乗る。23:00、国領のワンルームに倒れ込む。そこからが一人暮らしの始まりである。お米を炊き、洗濯機に服をつっこみ、シャワーを浴びる。元気があればおかずを作ってお米と一緒に食べる。皿を洗う。浴室に洗濯物を干す。歯を磨いて布団に入るときには午前2時なんてことも珍しくなかった。夢の東京ライフはあまりきらきらしていなかった。僕の一人暮らしは炊飯であり、洗濯であり、ただそれでしかなかった。朝起きるとごはんと味噌汁におかずまでそろっており、真っ白なシャツにはぴしっとアイロンがかかっている。帰ってくると食卓にはいろとりどりのおかずが並び、洗った服はすでに畳まれている。当たり前の景色は父と母の手によって作られていたのかと18歳にもなって当たり前のことに気づいた。

強火の反抗をしていた当時はごたごたと重箱の隅をつつくように両親の仕事にケチをつけていたけれど、素直に振り返ってみると2人とも家事が得意な人だった。彼らがどんなに忙しくても明日着る服がないなんてことはなかったし、おいしくて栄養バランスが考えられたごはんが時間どおりに提供されていた。僕の家では食事は基本的に母の領分だったが、父もまた料理が上手で、母ではなく父の担当と決まっているものがいくつかあった。土曜朝のホットサンド、忙しいときのチャーハンとすまし汁、ちょっとしたお祝いのときのすき焼き、それから各種の鍋とおでん、ゴーヤチャンプルーと甘めの卵焼きだ。たまに母がゴーヤチャンプルーを作ると、僕は父のものがよいと喚いていたから、そこだけ切り取るとずいぶんかわいらしい反抗もしていたのだと恥ずかしくなる。それはそうと、父が家族の誰にも譲らなかったのがすき焼き奉行であった。父の父、今は亡き僕のおじいさんからその任務を受け継いだという父は、親戚の集まりやちょっといいことがあったときに決まってすき焼きを振る舞った。鹿児島のすき焼きは牛脂を溶かした鍋で肉を焼くことから始まる。お肉から赤が消えかけたら、ざばざばっと、はじめて見た人がびっくりするくらいの砂糖をかける。そこに味噌汁のお碗1杯分の醤油、それから白菜、しいたけ、えのき、しらたき、ねぎ、豆腐。どう見たって適当に作っているのに、気づけばおいしいすき焼きが出来上がっていた。父のことは嫌いだったが、父の作るすき焼きには「おいしい」と言わざるを得なかった。

東京に出てから5年目。当時付き合っていた人と一緒に暮らしていた時期がある。僕には僕の家があったから同棲と言っていいのかはあやしいところだけれど、彼女の家のほうが圧倒的に広く、そして大学の目の前だったから、ほとんどの時間を一緒に過ごしていたのだった。このころには僕は一人暮らし5年生になっており、炊飯に洗濯にとおろおろしていた少年から家事をそつなくこなす人になっていた。ありがたいことに彼女も料理が上手だった。それも僕がなかなか手を出せない洋食を、オリーブオイルやコンソメ、トマトなどなどを使いこなし、いとも簡単に作ってのけた。2人ともごはんを振る舞うのも食べるのも好きだったから、早く帰り着いたほうがごはんを作るのが暗黙の了解になり、彼女の日は洋食が、僕の日には和食が食卓に並んだ。ときには2人でスーパーに行って一緒に台所に立つ日もあった。小さじも大さじも使い分ける僕に対して、彼女は目分量で「きっといい感じっ」と笑うのがおかしかった。知っている人と落ち着いて話すのが好きな僕と、気づけば隣の席の人と仲良くなっている彼女。計画を立ててから進めたい僕と、とりあえずやってみようと動き始める彼女。性格は正反対だったものの、かえってそれがよかったのか、出会ってから長い間喧嘩をしたことがなかった。そんな僕らがほとんどはじめての大喧嘩をした。どうしてかは覚えていない。でも、あれはすき焼きを作った日だった。東日本生まれの彼女と西日本の僕では仕方がなかったのかもしれない。すき焼きの作り方ではっきりと揉めたわけではないけれど、なんとなくギスギスしていた気がしている。それ以来、僕らの食卓にすき焼きが出てくることはなかった。

久しぶりにすき焼きを食べたのは例の大喧嘩から1年半後くらい後だった。久しぶりに実家に帰った僕に母は言った。
「夜ごはん、すき焼きだからね。」
思い返すと18歳のころから、帰省するたびに父はすき焼きを振る舞ってくれていた。わがままだった僕がめずらしく素直に嬉しそうな顔をすることを覚えてくれていたのだろうか。
「今日のお肉どこ産かわかる?」
特段笑顔というわけではない、授業中に生徒に問いかける教師みたいな顔をして父は言う。おいしいけどわからないなぁ、と答えると、今日は宮崎牛だと今度は満足気な顔をしておかわりをよそってくれる。あるときは神戸牛、たしか丹波牛のこともあったと思う。当然ながら18歳までの我が家では、そんな贅沢なお肉を食べることはほとんどなかった。父が寝たあとで母と話す。
「帰るたびにおいしいすき焼きが食べられて嬉しいな。」
ありったけの反抗をし終えた僕はもう感謝を伝えられる。
「私も嬉しいよ。」
母は言う。それを聞いた僕は、この人ってこういうところがあるよな、こういうところがいい人っぽくて苦手だったのだよなぁとかしみじみと思う。さらに母はいたずらっぽく笑いながら父の秘密を教えてくれた。今度帰るよ、という僕からのLINEには返信しないくせに、静かに冷蔵庫においしい食材を揃えておくらしい。なんとまぁ、かわいい父じゃないか。そんな父に、ありがとう、おいしかったよ、がちゃんと伝えられるようになってよかった。母の嬉しい、をまっすぐに受け止められるようになってよかった。18歳の僕に教えてあげたい。和気藹々と家族で食卓を囲めるようになったよ。お米を研ぐことであり、狭い浴室に服を干すことであった東京の一人暮らしがあってよかった、と心から思う。

昨年は九州に行く機会が多く、10月に3回目の帰省をした。1日目に僕を出迎えてくれたのはすき焼きではなくおでんだった。嬉しいけどベストシーズンはもう少し先だろうか。大根にこんにゃく、ちくわ、手羽先、さらにはゆで卵にじゃがいもまでたくさん盛られた器を眺めながら考えていると、5月に帰ったとき、すなわち前回の帰省でもおでんが出てきたのを思い出した。さかのぼるべきは前々回、まだ寒かった2月のこと。東京で一人暮らしをしていた僕は「冬におでんを食べることがなくなって寂しい」とこぼした記憶がある。続く5月、もちろん父はおでんを作り、僕は大層に喜んだ。そして10月、僕が1人で感慨深くなっているとはつゆ知らず、父は真面目な顔でクイズ番組を見ながらおでんを食べている。焼酎のグラスを2つ持って父の隣に座る。お互いとくに何も言わないけれどそっと乾杯をした。

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