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歩くこと、書くこと

気がつくといつも山道やまみちを歩いている。
去年の冬の一人旅、瀬戸内海に浮かぶ豊島てしまの山の中をひたすら歩き、その数日後には、奈良県十津川村にある玉置神社からの帰り、山麓さんろくまで3時間、山道を下った。春の台湾一人旅、観光客のいない田舎の山道をひたすら歩いた。大学の当直実習の明けの朝、「長崎の先に行きたい」とふと思い立ち、樺島かばしままでバスで向かった。長崎の先に立つ、樺島灯台まで1時間、雨がぽつぽつと降る中、イノシシの背中を追いかけながら、山道を歩いた。

山道だけじゃない。
映画館でレイトショーを観た後の帰り道、家から大学までの通学路、休日にはしごするギャラリーからギャラリーの間の道。旅じゃなくてもいつも歩いている。そもそも、車を持っていないから歩くしかない。自転車はあるけれど、あまり止める場所もないから、結局、歩くしかないのだ。

ささやきの森 / 豊島

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先日、森恭佑さんが企画するライティング・ゼミの第2回に参加してきた。

第2回ゼミのテーマは「書く」こと。

今回のゼミでは事前課題が用意されており、「好きな本を1冊選び、その中でも特に好きな一節を書き写してくる」というものだった。
この課題を聞いたとき、パッと浮かんだ本は何冊かあったけれど、最終的に星野道夫さんの『旅をする木』を選んだ。
そして、この本の「もうひとつの時間」という章の一節を原稿用紙に書いて持っていった。

「書き写すことで文章の速度がわかる」

書き写すことについての森さんの言葉。脳がその言葉を処理するまでに少しだけ時間がかかったけれど、不思議とすんなり身体からだに染み込むように理解できた。
大学のレポート、学生団体のイベントの報告書、旅の紀行文。ここ数年、長い文章を書くときはいつもPCを使っている。だから、たった400字であっても、紙に手で文章を書くというのは久しぶりの経験だった。
手書きのスピード感や紙の柔らかさ、筆圧が強すぎて手が痛くなる感覚。じわっと細胞から染み出すように思い出す。

「書くことと歩くことは相性がいいのかもしれませんね」
持ち寄った本をシャッフルして、その場で”書き写す”ことをした後、他の参加者さんが呟くようにそう言った。偶然なのか、必然なのか、持ち寄った本は旅の本が多かった。パラパラと本をめくると、知らない土地を歩きながら、筆者が感じたことや考えたことが書かれている。僕にも同じようなことがある。一人で歩いているとき、話し相手もいないから、妄想に耽るように自然と考え事をしている。一人旅で山道を歩いているとき、映画館から歩いて帰るとき、頭の片隅で埃をかぶっていた思考の種を持ち出して、水をやってみる。

杉の木のようにますっぐ成長するものもあれば、フェンスを伝う朝顔の蔓のようにくねくねしながら成長するものもある。中には、枯れてしまうものもあるけれど、それはそれで新たな土壌を作っていく。
そうして、頭の中で育ったアイディアをスマホやPCのメモに植え替える。

でも、スマホやPCに溜まっていく日々のメモや日記は、どれくらい自分の肥やしになっているのだろうか。ゼミからの帰り道、タルトヤヒュッケリの甘夏のタルトを頬張りながら駅まで歩いているとき、ふとそんなことを思った。5年前から蓄積されているメモの山。このメモを手書きで書き起こしてみたら、どんな果実が実るのだろう。

杉の巨樹群 / 玉置神社

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歩くこと、書くこと。

違う営みだけど、つながっている。

何をするにも効率が求められ、速く正確に"よい"ものを作ることが善しとされる。それは社会を回すという目的以上に、自分が仕事で食べていくために必要なことなのかもしれないけれど、そのスピード感で走り続ければいつかは息が切れる。速すぎて周りが見えず、足を止めた場所が一体どこなのか、スタートラインから一体どれだけ離れた場所なのかわからなくなる。

僕が持ち寄った『旅をする木』の一節にこんな言葉がある。

 「東京での仕事は忙しかったけれど、本当に行って良かった。何が良かったって?それはね、私が東京であわただしく働いている時、その同じ瞬間、もしかするとアラスカの海でクジラが飛び上がっているかもしれない、それを知ったこと……東京に帰って、あの旅のことをどんなふうに伝えようかと考えたのだけれど、やっぱり無理だった。結局何も話すことができなかった……」
 ぼくたちが毎日生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは天と地の差ほど大きい。

『旅をする木』/ 星野道夫

僕がこの文章を書いている時、その同じ瞬間、もしかするとアラスカの海でクジラが飛び上がっているかもしれない、なんて考えたら、ものすごくわくわくするし、同時に少しだけ自分が生きている時間の流れを客観視することができる。たまに、人生の本流から離れて、心の中に広がる海でクジラと一緒に泳いでみてもいいのかもしれない。

鉛筆を持って、紙に向かう。
キーボードみたいに速くは打てないけれど、でも、だからこそ、文章の速さや、言葉の質感を肌で感じ取ることができる。自分の呼吸が感じられるくらいの速さはやさで、筆を歩かせる。

書き写すことは、もうひとつの時間の流れの感覚をゆっくりと自分の中に取り戻していくための作業なのかもしれない。


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そうえいば、前から気になっていた本がある。これを機に読んでみようかな。


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