生誕の話
石川県の片田舎の平家の社宅で、誕生日のプレゼントが『電車鉛筆』であるような貧乏な4人兄妹の末っ子である父と、愛知県で専門商社を営む経営者の5人兄妹の4番目である母との間に生まれた。
母曰わく、避妊したはずなのにできた子らしい。妊娠に気付かず海外旅行していた為、『あなたは生まれる前から海外を経験している。海外と縁のある子だ。』と何度も言い聞かされた。いまもこの説明には『はぁ…そうですか。』としか答えようがない。
父と母は、いまはあまり聞かない見合い婚だ。一度目の見合い後には母から父へ断りを入れたらしいが、母が仲人(?)を換えた見合いに再び父を紹介され、『これは運命に違いない。』と母は感じ、求婚に応じたらしい。いや、そもそも結婚適齢期に、同じような条件や地域で探せばそりゃ同じ組み合わせになるのは当たり前だろうに…と私は思うが、そこに運命を感じた母の感性は、経営者である祖父が大事に育てた、苦労を知らない『お嬢様』ならではのものであったのだろうと思う。
母の実家である名古屋の病院で生誕し、新生児ベッドの番号が『B-29』であったことを後に知らされた私が生まれたのは、約10年後に株式市場が最高値の3万8957円を記録するバブルの始まりであり、東京ディズニーランドが開園した、1983年の夏の日であった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?