自分語り

突然だが、現在、自分の状態は精神、肉体共に頂点に近いといえると私は考えている。
今の状態になった切っ掛け、そして今の状態を記録しておけば、今後調子を崩すことがあった時に役に立つかも知れない。
ついでに承認欲求も満たしちゃおうということで、ここに書き残す。
自慢ではないが、結構特徴的な経歴をしている。多分私を知る者なら即特定できるだろう。
こちらからすれば、まあ私を特定して何やかんやするような物好きはいないだろうという楽観的計算をしている。
(前回はテキストの作り方分からなくてすごい見にくくなってたが、改善した。内容が内容なので直すことはないだろう。)


一応
登場人物の名前は仮名です

現状のプロフィール

名乗り(ネット上):yuto(2014頃~2022夏)
           yutoapi(2022夏~2024)
           yuto_s111y(2025~)、ここではyutoとする
誕生日:2007/10/09 2025年1月現在17歳3ヶ月
血液型:O+
 性別:男
 身長:174.4cm 体重:83.0kg
あだ名:豚
好きな食べ物:豚肉、フライドポテト
 部活:高1時ロボット同好会→潰れて現在帰宅部
   MBTI:INTP
 趣味:創作物全般(特にTVゲームとブラウザゲーム)・ジョギング・野球・曲を聴くこと etc…
世の中にいる私に近い特性の人間は、概ね他人にはないような長所や短所を持っている傾向があるし、私も例外ではない。
私の長所は、五感の鋭敏さと速読能力といったところだろうか。
特に視覚と聴覚、触覚(首周り)はかなり鋭敏になっている。母親父親が自分の部屋に来訪する時に確実に気付けるのだ。
そう考えると自分のプライベートを重視する人々にとっては垂涎ものなのだろうが、はっきり言って首周りが過敏だと襟付きの服を着るのがかなり地獄なので、そこまで羨まれるようなことではない。
速読能力はまあ読んで字のごとくだ。でも古漢文と英語はできない(文意を理解できなければ意味がない)のであまりテストの役に立ってたりはしないのでこちらもそこまで凄くはない。
短所は頭がおかしいことの一つに集約できる。というかこれ以外に形容詞が見当たらなかった。とはいえ、私の場合はあえてまともじゃなく振る舞っている面が多々あるので、それは別の記事で紹介しよう。
言ってしまえば一つの思考法である。

中学以前

第一ターニングポイント

2007年10月9日火曜日、午前5時37分。
十数年後にこのnoteを書き上げる男児が、埼玉県で産声を上げた。
父と母は半年前に籍を入れたばかりで、父は陣痛知識すらまともにない状態での出産だったという話だ。
その二年後の第一ターニングポイントは、記憶が正しければ2009年12月と盗み見た記憶がある。
曰く、私は知的障害を伴う広汎性発達障害と診断されたらしい。
この診断名は範囲が広すぎるということで4年後に廃止されたため、私はこの診断を喰らった人間の中では後の方ということになる。
そういうわけで、私はレッテル貼られてるレール上に乗せられる羽目になった。
後に詳しく説明するが、実際は私に知的障害などないため、この時の診断は半分誤診である。
しかしその誤診のお陰で私は世のルールを学ぶ機会を暫く失ってしまった。理解できないと決めつけられていたのだ。

幼稚園〜小学生時代

幼稚園時代は月水金で障害児専用の療育所、火木で幼稚園に通っていた。
曰く、体操着を着れなかったとか。体操着なのに襟のあるデザインになってるのは今もおかしいと思っている。
当時は埼玉県に在住していた。療育所だったか幼稚園だったかは忘れたが、何かの行事で東京都に足を踏み入れたことは今でも記憶に焼き付いている。
またこの時期に母のPCを強奪して勝手にブラウジングを始めるようになった。私の特性に合ったのか、タイピングをあっという間に覚えてしまっていたようだ。
この頃から一日の自由時間の殆どを画面と向き合って過ごしていた。4歳の時に妹が産まれたことも有り、私には親にかまってもらった記憶があまりない。
私にとっての子守唄は、当時流行していたyoutubeでの2chまとめだった。
6歳の時、父親の転勤で埼玉県から現在住んでいる家、北海道に移住。
同時に小学校に入学すると、IQが65前後だと思われていた私はさも当然というように特別支援学級送りにされた。
神童扱いされて図に乗っていた記憶がはっきりと残っている。ここだけ切り取ればかわいい早熟エピソードだ。
月火木金はそれぞれ別のデイサービスに通って療育活動をする日々だった。
父親の影響で理系分野に興味を持ち始めたり、9歳までおむつが取れなかったり、12歳まで謎のぬいぐるみ遊びに興じていたり。
今考えれば、実態と診断の違いによって結構な歪みが生じていた。
そんな中、youtubeにてまた当時流行していたいわゆるゆっくりコンテンツに私は嵌っていく。
たくっちさんを筆頭に、主ちゃんねるさん、ゆっくりKさん、てきとう太郎さん………
所謂あるある動画を出していった人達。彼らから常識をほんの少しだけ学べた。
理系に本格的に嵌る切っ掛けになったのは、コイルガンの動画。
彼を最後に見たのは、逮捕のニュース。
あの時憧れたフォルムが、警察の押収品として、再び私の眼前に現れる。
そんな未来は予測できていなかったが、普通にコンテンツとして楽しんでいた。銃には興味はなかったが工作には興味があったのだ。
一方、このままいけば一生彼らに関われることはないんだろうなと、薄々ながらも、子供心に察していたところもある。
今を知る人間は絶対に信じないだろうが、当時の私は大人しい人間だった。ついでに言うと痩せていた。五年生あたりから太ってきた。
きっと、周囲の定型発達者との距離は、無意識ながらに感じ取れていたんだろう。

第二ターニングポイント

小学校六年の冬、12歳。
私と母の足は定期検査に向かう。
この国は意外と障害持ちに優しい。五年か三年かごとに情報を更新し、どういう支援が必要かを改めて見直してくれる。
そこで何が起こったのか?
私が知的障害だという誤解が解けた。
知的障害を伴わない広汎性発達障害として、改めて扱われることとなった。
そこからは意外ととんとん拍子だった。療育手帳は精神なんちゃら手帳へと変わり、制度的な云々に関する云々もあったらしい。私は詳しくない。
そんな中、お勉強だけはできたこともあり、私には通常学級で授業を受けていきましょうという話が舞い込んできた。
しかし当時の私は、これを断った。そうしなければ未来が閉ざされるなど知る由もなかったからだ。
私は一般常識を身につけていなかったので、結果論これは正解だったと思う。

第三ターニングポイント

ここからは割とターニングポイントの山である。
何があったか。
コロコロしたウイルスが大流行。
ニュースを見てもなんかちいさくてコロコロしたやつの話題が蔓延している。
その現状を見た私。
この陰気臭い雰囲気をどうにかしなければと、危機感を持っていた。
そこで、何か芸でも持ってくることとした。
日課のブラウジング。
たまたま目に入ったのは、クロちゃんの「あわわわー」だった。
あわわわーをあばばばーに変えて。
その場の思いつきで変なダンスも追加して。
駄洒落も思いつき次第言ってみようかしら。
そんな思考回路で中学校の特別支援学級を過ごすこととなった。
結果的に言うと、これは大成功。私のLINEスタンプまでできてしまった。
高校以降のハンドルネーム「yutoapi」もここから来ている。
まあ大成功とは言ったが、これも私一人で成し遂げたわけではない。私のクラスにおいて特別支援学級は一クラスのみだったため、障害の程度や種類に問わず同じ場所に放り込まれていた。
そんな中清涼剤になれたのは、状況を理解できていないからか普段と同じテンションで過ごせる重症児たち。今だから言える、
ありがとう伊藤先輩!!!

第四ターニングポイント

コロナ休校を乗り越えた私に、再び普通学級行きの話が舞い込んできた。とはいえ、いきなり全部ではなく、普通学級の特定教科のみを受けようというのが話の全容だ。
私はそれならいけると思い、快諾した。中学の支援学級で常識を叩き込まれていたこともある。なお全然不足していた模様。
なお、向こうで味をしめていた私は、普通学級でも同じテンションで過ごすこととなり、結果嫌われまくった。高一の夏くらいまで結局このキャラ脱却しようとはならなかったし、今も偶に癖であのムーブが出かける。
それはともかく、嫌われることがそこまで苦ではなかった私は、順調に通常学級で過ごす時間を増やしていき、中2の三学期には完全に通常学級での籍となった。
ボコされボコられボコボコになりながらも、当時の私は一般常識をゆっくりと身に付けていった。
なぜそこまで通常学級に固執したのかと言うと、楽しいからである。
支援学級のカオスな日常!……なーんてyoutube番組が最近沸いたらしいが、私に言わせれば確実に盛っている。カオスを生み出す人間は監視下に置かれて自由を奪われるのだ。
私が通っていたクラスには自閉症児が結構多かったこともあるのだろう。みんな毎日同じことをやっていたのだ。
通常学級を知らない私には、それは一般人が言う「毎日同じことばっかでつまらない日常」と等価であった。
だから、日によって皆の行動がブレる、そんな通常学級は眺めているだけで楽しかった。

第五ターニングポイント

ボコられてる途中にもターニングポイントはあった。中1の一学期。
中学に入ってもデイサービスへの通所は継続していた私だが、小学校時代に遊んでいた人間は皆一学年下。私だけ進学で疎遠となった。今の全国民スマホ時代とは訳が違うのだ。
しかも、小学校時代の友達の潤、遥斗、荒太。三人とも支援級で、この三人は陽気なタイプだった。今考えれば単純に合わなかったんだろう。あまり楽しい記憶が残っていない。
そんな中、デイサービスで出会いがあった。休校になった学校と違い、デイサービスは存続できる。というかそうでないと存在意義がない。
デイサービスでは変わらず内気キャラで通っていた私。駄洒落は言ってたけどそれだけじゃ狂気ひしめく施設では敗北者。
そんな中、同じ野球趣味で内気な男の子が入ってきた。名前は長旗弘。
デイサービスには野球盤があったが、弘と私以外に遊ぶ人間がいなかったので、この二人が独占していた。
言葉数はどちらも少ないが、確かな友情がそこにはあった。私にとって初めての気の合う友人だった。
だが弘とは通所予定が徐々に合わなくなった。
そんな中、デイサービスのスタッフが、私に弘に関する知らせを告げてきた。
普段物覚えの悪い私だが、はっきりと覚えている。
2020年12月3日木曜日、帰りの送迎車の中で。
弘の訃報が伝えられた。
享年9だった。
死因は「ポテトチップスの過剰摂取による内臓機能の低下」
ギャグみたいな死因だが、残念ながらここは現実なのでギャグ補正が働かず蘇生することができない。
結果的に私のぼっち至上主義は大幅に悪化。徐々に私のメンタルが削られ始める。

第六ターニングポイント

つらいことがあっても めぐりめぐるはターニングポイント
なんだかんだで基礎学力面は大丈夫だった私。しかし内申点関連でトラブった。
俎上に上がったのは、私が支援級にいた間の成績をどうするかである。
他県のシステムはわからないが、北海道の内申点のシステムは
(1年時の評定平均*3)+(2年時の評定平均*3)+(3年時の評定平均*5)
という計算によってはじき出される。しかし私は1年時の評定の大半と2年時の評定の大半が欠損している。
評定の最大値が315点。1年時の評定は流石に2年時の評定を見込み点としてつける、とするのは前提として。
2年時に評定がついていない教科を見込み点とするか0とするかで、私の点数が30点前後変わることとなる。
最初の進路面談で、2年時に評定がついていない教科は見込み点になると言われ、高校選択もそれに合わせたものとなった。
急に変わった。
いきなり2年時に評定がついていない教科は0になると書き換えられた。
この時の担任は竹谷先生。他は最高だったが、私は彼を一生根に持つだろう。
高校選択を急いで見直した。
当初の私にとっての高校選び重要条件は始業時間の遅さ。なぜなら起きれる気がしないのと遠いからである。
候補は公立A高校と私立B高校。A高校は8時30分始業、B高校は9時40分始業。
普通に考えればA高校は論外なんだが、B高校では始業時間が遅いので遠方でも大丈夫だ、ということが喧伝されていた。
その情報がA高校とごっちゃになった。
結果的に完膚無きまでの勘違いをしてしまった私は、9時40分始業と思い込んだままA高校の受験を受け。合格し。足を向けたのだ……。

高校時代

第七ターニングポイント

いじめられた。
要因は三つあって、
①単純に一般常識がまだ身につききってなかった
②受験の後遺症であたおかが悪化していた
③在来のやべーやつが支援学級関連のこと全部ぶちまけてくれた。
この三つである。
①②に関しては読んで時のごとく。俺は二重人格なんだー!とか言ってた。要は厨二病である。というより糖質の方が近いかもしれない。死にたい。
一番近しい人が死んだこともあって、友達いらん思考に染まりきってたので、キチゲ解放しかしてなかったのである!
③。小学校時代「yutoくん係」を任されていたコミュ力の鬼牛田。
その牛田が何を思ったのか支援学級に通っていたことを全部晒してしまった。
牛田は女子である。そしてコミュ力の鬼である。女子間の話題が男子軍団に浸透しないと思ってる人は牛田のコミュ力をぺろぺろ舐めているとしか言えない。
結果的に私は(社会的に見れば)カスみたいな過去を持ったゲェジとなってしまい無事死亡という訳だ。
さすがの私もかなり凹んだ。特に支援学級関連は超黒歴史化した。
ちなみに牛田に仕返しされたという線はないと信じたい。
前述の通り、小学校時代は大人しかったので仕返しされるような人間ではないだろうし、中学校時代も牛田はダル絡み対象ではないからだ。

第八ターニングポイント

いじめで限界高校生化していた私だが、それでもロボット同好会の活動はあったし、部活の人間は(内心ではちょっと嫌ってたかもしれないけど)表面上はよくしてくれたので、完全メンタルブレイクは避けられた。
先輩は部長の進藤先輩に丸尾先輩、伏井先輩という面子。伏井先輩とは家が近い。
1年生は私、石田、伊東という面子。なお登場はこれっきりである。
ロボット同好会は、夏休み明けすぐの大会に向けて、休み返上でプログラミングか3Dプリンタの調整。3Dプリンタが安物で成功率が2割という有り様なので、調整は最重要事項。
後は3Dモデリングを作ることや、穴あけ加工も担当していた。
だが集団でのものづくり自体初めてだった私。結構空き時間が多くてキチゲが貯まる作業だったこともあり割と派手にやらかした。
結果定員五人の大会は私だけハブられることとなってしまった。今思い返せば残念でもないし当然。遊び呆けてたからね…
そんな大会で観客枠だった私。自分たちの機体は2番目に走行。
無能だったとはいえ、私も結構制作に携わっている。そんな機体は…
動かなかった。
回路がオーバーヒートを起こしてしまったのだ。
これがきっかけで、私は自暴自棄に陥り、限界高校生生活に逆戻り。ちなみにもう一回同じ流れやります。

第九ターニングポイント

限界高校生と化していた私は、親からの「なんかやれ」という圧力を全身で受け止める羽目になった。
そこで、とある別の大会の存在を知る。入力回路を組み、その回路と事前に用意されている出力回路上でのプログラミングで規定の動作を実現する。その巧拙を問う個人技の大会である。
親からの圧力を逃れるため、という回避型コンフリクトの末の決断だったが、これが結果的にはよかった。
同じ学校から大会に出場するのは、私、宮本篠生、長旗理九、荷前祐介。ちなみに篠生はこの後の最重要人物である。基本過ぎてテストに出ないレベル。
そう、理九と弘は同じ苗字だった。(これは実際に同じ苗字)
そんな縁もあったのか、かなり仲良くなれた。というより、理九は隠し通してるだけで確実に私よりネジが外れている。
私がツッコミに回る貴重な面子。この時期が一番楽しかったといえる。
プログラミングは元々得意だし、苦手な基盤組みも反復練習しまくればある程度のクオリティにはなる。1月から大会のある5月までじっくり練習した。
大会は最初は地方大会に出る。1位のみが全国大会に上がれる厳しい仕組みだ。
さらに同一学校からは3人しか出れず、そのため四人のうち一人は3月に戦力外通告。その戦力外を決めるために、校内大会を開くことになった。
しかしその校内大会でトラブる。
私の出力回路が不調に陥った。
おーまいごっど、私の出力回路まともにプログラムを取り込めない鈍と化してしまったのだ!
結果的に私は最下位になってしまったわけだが、祐介の提案もありなんと再試合に。かなりありがたい話だった。再試合は4/10の予定だったが。
祐介が飛んだ。
この飛ぶは「会社を飛ぶ」とかの飛ぶである。祐介が突如学校から姿を消したことにより、結果的に私は大会への出場権を得た。
なお祐介が急に消えた理由は未だ不明である。俺の代わりに支援級にぶちこまれるべきだった奴らは俺のせいとか言ってたが、じゃあ何で再試合しようと取り計らってくれたんだろうかという話である。
気を取り直してトンでる面子での試合挑戦!結果は以下の通り。
篠生…1位
 私…4位
理九…6位
6位までが入賞なので、どうにか全員入賞できた。篠生は全国の舞台でもある程度結果を残した。
この成功体験は大きく、一時期は何にでもやる気が出た。丁度今と同じようなものである。
この時、自らの忘れ物癖を全身につけるミニバッグで解消しようという”yuto大改造計画”が始動し始める。実用性だけ考えればバッグ一本でなんとかなるんだが、そこはロマンだ、ロマンである。

第十ターニングポイント

7月の学校祭。有志発表の時間はこの年から設けられており、私と協力者の湖下晴は動画を作ることになった。
作るのは中学校時代を意識した先生へのインタビューコーナー&リクエスト曲。
湖下も湖下で相当疎まれていたため曲探しには苦労したが、陽キャの千田健とか湖下の知り合いとかがどうにかしてくれて枠を埋めれた。
編集担当は私。と思ったが、湖下は無編集動画を既に提出していた。というより、湖下は湖下で考えがあったらしい。
コミュ力不足が如実に出たが、気を取り直して編集編集編集編集編集編集編集編集編集編集編集編集編集編集編集編集編集編集(就寝時間が)死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑
編集データの提出期限は7時50分。
私が編集を終わらせ、学校に到着したのは8時20分だった。
結局無編集データ流すことになり、評判も地に落ちた。編集済みの動画は、今もこの文を打っているPCの中で眠っている。
結果的に私の無気力はより悪化。大改造計画も中止。
具体的に言うと、学校と家の往復さえ長期的にはできなくなるだろうというレベル。
それでも11月の修学旅行は海外。そこまでは気合でどうにかこなそうとした。
修学旅行のみが我が気力という状態。これが終われば私も祐介のように学校から消えることになるという確信すらあった。

第十一ターニングポイント

冬だ!海だ!修学旅行だーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!
ということでやってきた私だが、早速パスポート無くしてさあ大変。
諸々あってパスポートが担任預かりになったのだが、当時の私は小学校時代の支援学級関連を完全に黒歴史だと思っており、過保護対応が超地雷。
結果また一悶着。
素直にありがたいと今は思えている。コミュ力不足で直接は言えないが、卒業までには言いたいな。
とにかくそれで再び精神状態が落ちた。本当にどん底。それでも修学旅行という環境だけが私を支えた。修学旅行じゃなきゃ発狂して祐介していた。
しかしながら。
このことを引きずりながら、自分達の部屋を徘徊していた。その時。
”yuto大改造計画”
その一端である、手首に巻く包帯、それに金属クリップで接続されているファイル類。
その全容の情報が、脳にフラッシュ的に入ってきた。
修学旅行から帰ってきた翌日。
包帯とファイル、財布、交通ICカードを準備。
包帯と貴重品にクリップを取り付け、接続する。
”yuto大改造計画”が始動した日であった。
結果これは絶大な効果を発動した。ファイルに入れるだけだから、忘れ物はしても一回だけ。今までカバンの奥底に沈み込んでおり、取り出しに手間取っていた財布も、一瞬で取り出せるようになっていた。
現在これは破損しており、貴重品は包帯ではなくリュックに直付けしている。しかしリュックがない時、大改造計画は再び火を吹くことになるだろう。
この成功体験により、私は再び精神を回復させることになる。しかし、限界高校生時代よりは少しマシ程度でしかなかった。

第十二ターニングポイント

大会でできた盟友、理九と篠生。
陰の者同士であるため、家に遊びに行ったりとかはなかったが、学校では貴重な話せる人間となっていた。
前兆はあった。
仲が良いはずの篠生が、なぜか私に対して苛ついている。
篠生が私を信頼できていない?そんなはずはない。
なぜなら篠生は[[特定されたときのために伏せ字にします]]を私に話してくれたんだから。
異変には気づけたはずだったのだ。
篠生には、結構友人がいる。その中の一人、クラスメートの蛟瑠偉。彼は机の上に針を置かれたりと嫌がらせにあっていた。
篠生はそれに対して[[特定されたときのために伏せ字にします]]してしまい、
結果篠生は今も学校に戻ってこれていない。
それを見た私は何かが……切れなかった。
むしろ、考えてみれば、私は友達いらないと言いながら、友達という存在に依存していたと、初めて理解できた。
私は、その時真に周囲の人間のことがどうでもよくなった。
もちろん迷惑はかけない。ただそれは私の拘りでしかない。
ただ…周囲の人間にどう思われようとも…どうせ独り身なんだから関係ないと思えるようになって。
それで精神は余計に回復した。
自分の周りの人は絶対嘘だと言うと思うが、自分という人間は、周りに対して余計なエネルギーを使っていた。
私は初めて、真にそれを自覚することができたのだ。過去もどうでもよくて、今ある私だけが真に実在するものなんだから!

まとめ

まだまだ私の人生という物語は続いていきます。
今後の目標としては、レベルの高い大学に行く。
それで、青春のやり直しをするということになります。
暫くはターニングポイントはいいかな……
では。


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