能登半島地震の被災地視察に行ってきました(2/3:輪島市、七尾市、内灘町)
能登半島地震の被災地視察のレポートです。
この前はこちらからお読みください。
13時20分 輪島市役所 訪問
輪島市内に入る。被害状況が伝わってくる。
輪島市役所にて中山副市長から復旧復興状況の説明を伺う。
輪島朝市の建物は相続がされていなかったり、複数の所有者がいたりと複雑な権利関係だったため、公費解体の前提となる、建物が被災により無くなったことを示す「滅失登記」を行うことが極めて難しい状態だった。
そこで法務省が5月末に「市町村の判断により解体・撤去を行って差し支えない」として、首長の職権による公費解体を認めたことで、公費解体が進むことになった。
会議室を出たところの掲示板に「わじま未来トーーーク」のポスターを発見。13年前、原発被災地となった福島県双葉郡で「双葉郡子供未来会議」と称してワークショップをやり続けたことが復興の一つの形になったことを思い出す。
復興において、子供たちと一緒に未来を語ることが大人にとってとても大切だ。
輪島塗仮設工房 視察
世界的に有名な「輪島塗」は輪島朝市通りの火災により、67の事業所が焼失または全半壊。住居と工房が一緒だった方も多いそう。4月1日に国の全額補助で仮設工房を4室オープン。
60人以上の職人さんが次の工房を待っているものの、現状は仮設住宅の建設が優先的に進められているとのことで、まだ時間がかかりそう。
輪島港(海底隆起現場) 視察
輪島港近辺は、海底が1〜4メートルほど隆起したために、港が使えなくなってしまっている。
国は水底の土砂を掘りあげる浚渫(しゅんせつ)作業を行い、仮設桟橋を設けるなどを行った。
ただし、漁業の再開見通しについての見解は分かれているようだ。たしかに漁協の方があまり発言されなかったのが気になっていた。
朝市・わいち通り 視察
輪島朝市・わいち通りは、地震のあとの火災で5万平方メートルが焼失した。
大津波警報で避難をした状態での消火活動は困難を極めたとのこと。
川の水位が下がって水がない、消火栓からも水圧が低くて水がでない、津波が来る可能性があるので海にもいけない。
説明してくださった市役所の方も、何人もの知り合いを亡くされたそう。
震災前の輪島朝市の映像を探して見る。
商店街の店先に、テントを張って朝市を開くという共存共栄を実現していたことはすごいことだと思う。
16時15分 七尾市 着 中能登農道橋(ツインブリッジのと) 視察
七尾市で「ツインブリッジのと」の被害状況について説明を受ける。この先にある能登島は、志賀原発から半径30キロ圏内の緊急防護措置区域(UPZ)に含まれる。現在は島に架かる「能登島大橋」のみが本土との行き来となる。
18時00分 内灘町 着 西荒屋地区(地盤液状化現場) 視察
金沢市のお隣である内灘町(うちなだまち)は、地盤液状化をしたところ。
写真をみるとわかるが、砂があふれている。
ここは砂丘だったところを埋め立てて宅地にしたそう。
液状化で砂が水とともに地下から出てきてしまった。
実は、2024年2月8日の予算委員会で、今回の能登半島地震における生活再建支援給付を300万円から600万円に引き上げるべきだという質問をした。
(16分くらいから)
こちらは実現したのだが、対象となっているのは、能登地域6市町(七尾市、輪島市、珠洲市、志賀町、穴水町、能登町)。
ここ内灘町はその対象外となっている。
もっと他の地域にも広げるべきではないか、という論点が残ったままだ。
帰宅後、「どうして砂地を宅地にしたのだろう」と気になったので、調べてみると、内灘町は砂丘の町だった。
内灘町は、金沢市の北にある河北潟と日本海の間の砂丘の町で、江戸時代には漁業が営まれていた。
昭和39年に河北潟を埋め立てて農地ができあがる。この地震では西荒屋地区を中心に大きな被害に遭っている。
どうしてこのような大規模な埋め立てを戦後に行ったのだろうと調べていくと、どうも「内灘闘争」と関係するのではないかと思う。
内灘闘争とは、朝鮮戦争が起きて日本製の銃弾の品質試験のために内灘の砂丘を試射場にすべく米軍により接収されたことへの住民の反対運動。
1957年正式返還。
その7年後から埋め立て開始。
今回被害に遭った地域はこのときの埋め立てた場所ではないそうだが、政治に大きく翻弄されてきた歴史を知っておく必要があるように思った。
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