#2-29 プリミティブな人
──2024年6月3日月曜日。時刻はちょうどヒルナンデスが始まるころ。墨田区の八広駅で下車したワイは荒川の河川敷にいた。初夏の湿り気に蒸された足下の草々からは、苦虫をすり潰した匂いがする。晴れるでもなく曇るでもない、甲斐性のない灰青空から、時折、斜めに顔光が差しこむと、保湿ローションを練り込まれたワイの顔面はネットリと汗ばんだ。草っ原を進んでいくにつれ、汗ばんでいく身体に不快感を感じつつ、一方で、プラトーン劇中でベトナムの湿潤したジャングルを突き進むチャーリー・シーンに自分を重ね合わせ、エクスタシーを感じてもいた。
──時刻が処刑の時刻を指すころ(=午後3時)、大きな橋のたもとにたどり着いた。河岸には、数人の釣り人がいる。悠久の時を愛でるその様は、漁獲を生業とする"釣り師"というよりは、"趣味師"といった具合である。
趣味師たちの中にひとり、蛍光オレンジのキャップを被ったおじいちゃんがワイの目を引く。若めの男性が何やらおじいちゃんと話している。どうやら家に帰るので、釣り餌をおじいちゃんにプレゼントしているらしかった。
若い人が去ると、ワイはおじいちゃんに近づいて声をかけてみた。
YT「こんにちは。晴れてきましたね。釣れましたか?」
OJ「いやー、今日はあんまり。小魚ばっかしだね」
YT「そうですか。小物ほどよく噛みつきますからね。もっと大きなヤマを狙いませんか?」
OJ「もちろん狙ってるよ」
現在70歳だというおじいちゃん。葛飾の出身で、定年退職後は、よく荒川に釣りを嗜みに来ているそうだ。オレンジ色のキャップに、フィッシングベストと、いかにも"釣り師"といった出立である。
YT「ぼくは、おじいちゃんのファッションにフォーカスして写真を撮っているんですよ。この帽子、色が鮮やかで面白いですね。どちらのものですか?」
OJ「ああ、これは町内会の役員のやつ。入った時にもらったんだよ。安もんだよ」
蛍光オレンジが派手で恥ずかしいが、プライヴェートでもよく被るらしい。
YT「このフィッシングベストも格好いいですね。下に着たジャージとのバランスもフェティッシュです。これはどれくらい着られてるんですか?」
OJ「これは10年前くらいかなー。街中に行く時もよく着るよ。リュックとか面倒だから。これ着てたらおにぎりとかもポケットに入るからね。」
携帯電話や財布、ペンや本はもちろん、昼飯のおにぎりまで、あらゆるものをこのベストに詰めることができるらしい。街中では少し恥ずかしいと言っていたが、今は若者もファッションでフィッシングベストを着るので大丈夫ですよと伝えた。
YT「ベストの下に着ているジャージはなんですか?チャンピオンのものですか?」
OJ「これも昔から着てるね。断捨離して服はよく捨ててるからあんまり持ってないんだよね」
服の断捨離に限らず、昔はカメラが趣味でニコンのF3とレンズを20本ほど所有していたらしいが、5年前にそれらも全て売却したらしい。昔は女性のヌード撮影を仲間と趣味で行っていたようだ。1人1万円ほど払ってモデルをホテルに呼ぶんだよ、と教えてくれた。
YT「細めのパンツにボリュームのあるシューズ。下半身の組み合わせもフェティッシュです」
OJ「これは、あれ、最近流行ってる、あそこ。あのー、作業服とかの……」
YT「ワークマン、ですか?」
OJ 「そう!それだ!近所にユニクロがあるけど、少し歩いたところにあるワークマンによく行きます。安いので!」
ワークマンで買ったという靴のつま先には鉄板が入っている。現場用の安全靴であった。特にその点は気にせずに、安くて丈夫という理由で購入したらしい。ズボンも、ジーパンは履きづらくて履かなくなったということで、もっぱらワークマンのイージーパンツを着用している。
最後に写真を数枚撮らせてもらい、おじいさんの過去の話を聞かせてもらった。おじいさんは人生で3回転職したことがあるという。仕事を辞める度に失業保険をもらい、その金で半年ほど遊び、金が尽きると再び定職につく。実に欲望に忠実である。欲望の解放のさせ方が下手っぴなカイジくんとは大違いだ。
破天荒な職歴やヌード撮影など、欲望に忠実な一方で、近年は断捨離を行ったり、対自然的趣味の釣りに勤しむなど、欲望の影は消失したように思われる。町内会のキャップや機能的なフィッシングベストは、近年の禁欲的なミニマリズムのあらわれなのだろうか──
否──、
リュックは面倒といいつつ、モノをなるべく詰め込めるフィッシングベストを着用するという選択は、断捨離という欲望との訣別行動をとってなお、消費への可能性は最大限もっておきたいという矛盾する感情、すなわち最もプリミティブで、最もフィジカルで、最もフェティッシュな「欲望」のあらわれなんじゃないですか──?
断捨離を行い物質主義の欲望に別れを告げる一方で、フィッシングベストの大きなポケットにおにぎりを入れた時、そこにあらわれる膨らみと、その物質的なテクスチャアに、いつしかエクスタシーを感じていたんじゃないですか──?
そして、タクミさん。あなたはこのおじいさんと話していて、上記のような違和を感じたからこそ、彼のフィッシングベストに特大のエクスタシーを感じたんじゃないですか──?
──いいですか。タクミさん。ポケットというのは欲望の入り口なんです。オタクにレヴェルがあるとすれば、それはいかにレアなアイテムを多く収集できるかということに拠ります。そのためには数多くのアイテムを収納できるスペースがなければいけません。つまり、部屋の大きさは、オタク度に比例するんです。
同様に、ポケットが多ければ多いほど、それだけ消費活動を行えるということなんです。おにぎりを2個買えば両手が塞がってしまってもうそれ以上は購入できません。しかし、それらを上着のポケットに入れてしまえば?空いた両手で新たなおにぎりを買えますよね?衣服のポケットというのは、最もフィジカルで、最もプリミティブで、最も消費活動に直結する身体拡張だと思いませんか?
先ほどのご老人は、断捨離をして、服にも無頓着で、一見無欲な存在に見えます。しかしその実は、断捨離で空いた欲望の穴を、フィッシングベストのたくさんのポケットで埋めようとしているんじゃないですか?あのポケットたちは、物欲と消費によってパンパンに膨れ上がることを今か今かと待ちわびているんじゃないですか?そんな空虚なポケットたちにホカホカのおにぎりをさっと詰めてあげる。それが我々「おにぎり師」の仕事です──
(もうええでしょ──)
ふと我にかえり、顔を見上げると、おじいさんはまだ昔語りをしている。川の向こうには、既に夕日が落ちかけている。
「おれは──、おにぎり師なんかじゃない」
夕日が煌々と映えるメガネの内で、タクミの目に溢れる涙。
──去り際、タクミはおじいさんのベストのポケットに、特大のおにぎりをさっと忍び込ませていた──