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トロッとキリッと黒霧島

ふと気が向いて携帯電話のメモ帳を漁っていると以下のようなメモが出てきた。日時は昨年の3月13日と書いてある。以下はその文章である。


ニーチェの言葉にこういうものがある。
「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。」
私は結婚生活の終盤において「経済」と「家庭」という二つの解釈でしか元妻(実は離婚してました)を見てなかった。
ここで彼女の名誉のために注釈を入れるが、決して度を越した散財をする訳でもなければ一切の家事をやらない訳でもなかった。 ただ家事やお財布面の価値観が合わなかったという事はあった。 彼女は彼女なりに頑張ってる事がある。
しかし私の目から見たら遊んでる様にしか見えなかった。 でもそのように見えた原因は私の彼女を測る物差しが先程述べた二つしかなかったからだろう。

才能とは主に二種類に分けられる。 「金になる才能」と「金にならない才能」だ。 具体的に言うと前者は「野球」や「サッカー」などと言った一般的に称賛され尚且つそれが仕事になる才能で、 後者は「絵を描くのが上手」であったり「歌を歌うのが上手」であると言った、仕事にする事はできるがそれで食べていくには極めて困難である才能の事と定義しよう。
また「金になる才能」を持っていたとしてもそれを仕事にしてなければその才能は現代社会において全くと言っていいほど称賛されない。
例えば「野球はとっても上手だが野球選手にはなれず、夢を追い続けてるアルバイトの人」などである。
「才能がある事」や「努力をしてる事」だけでも素晴らしいのに世間に評価されるにはそれに加え「お金」も必要なのである。
私はその「金にならない才能や努力は称賛されない」社会構造はとても居心地が悪く嫌いだ。
話を戻そう。 私は今まさに先程自分が「居心地が悪くて嫌いだ」と言った事を元妻に対してやっていたのだ。

彼女の「才能」や「努力」に対しての良い解釈は無く、自分の数少ない二本の物差しで彼女を測り評価していたのだ。(評価と言うと上から目線で凄く偉そうに聞こえるがわかりやすいので評価という言葉で表現する。)
離婚原因はもっと他にあるのだが、この様な私の態度は彼女にとって非常に居心地の悪いものである事は容易に想像できる。
この事から反省すると、私は人を測る物差しをもっと沢山持つべきである。 冒頭のニーチェの言葉にあるように「そこに存在するのは解釈だけ」なのに私は解釈の幅が狭すぎるのではないだろうか。
一つの事象に対する解釈はもっと沢山あるのに一度解釈すると次の解釈をしようとする事を怠っていたのだ。
人生80年だと仮定して(途中で死ぬ可能性は大いにあるが)残りの50年、もっと多角的に物事を解釈し様々な事象に対して寛容でありたいものだ。
そもそも何故私が家族に対してこの様な「結果重視」的な考え方になったのか、その答えは幼少期まで遡って見ようと思う。 その話はまた別の機会に。



以上が一年前のメモ書きである。
現代の社会ではどうしても経済的に生きていくのが得意な人が称賛される傾向にあると言える。「経済的に生きるのが得意」とはつまりお金を稼いだり仕事をするのが得意だという事だ。だがしかしお金を稼げなくても仕事ができなくてもそれはその人の一面でありその人全体を評価するものではないのである。
その事を忘れずに今後も生きていきたい。


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