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2025年の年始に読むべき名文に出会えました -AI、シンギュラリティ、そして人間の矜持とは -

新年明けましておめでとうございます。

冒頭のカバー画像は、飯田市内を上がった初日の出です。

風越山見晴台(標高1409m)をまずは目指し、5時に起床して登山しましたが、いかんせん雪山で、昨年より難儀しました。

南アルプスの山々が美しいです。

風越山見晴台からみた2025年元旦の南アルプス

本年もよろしくお願い申し上げます。

さて、先ほど偶然でしたが、下記のエッセイを拝見でき、「2025年の年始に読むべき名文に出会えた」との思いです。

1995年頃に日本でインターネットが普及する以前は、新聞のコラムや、電車のドア上の広告ですら、読んでうっとりする名文に出会えることがありました。

名文を望む書き手の方々は、日々「名文に触れたい」と、古文を読み漁り、明治以降の文豪たちの作品をあたり、そして同時代で優れた名文を探し求めました。

上記のエッセイを、おそらく生前の丸谷才一や谷崎潤一郎のような名文を生涯追求した書き手の方々は「よくぞ書いた」と礼賛すると思います。
そしてエッセイの筆者の危機感の本質は、後半にあるように、人間が人間でなくなる状態に麻痺していくことと読めます。

技術革新を嘆いているのではなく、私たち人間の劇的な劣化を嘆いている。

人工知能(AI)の台頭は、その決定打にはなっても、エッセイは単純なAI批判ではありません。

私たち人間が「コストダウンが至上命題。安かろう悪かろうで構わない」から脱して、人間の矜持や品格を維持向上できるかが、2025年以降、問われていると、本文から深く実感しました。

当然ながら、AIは名文を書けず、もし名文もどきを書いても、人間にしか判定できません。

エッセイは私たちに「人間たれ。奮起せよ」と呼びかけているように私は拝察します。

もし「安かろう悪かろう」を人間が追認するだけなら、そして人間が人間であろうという努力を止めるなら、それをシンギュラリティというのかもしれないと、エッセイの読後に初めて気づきました。

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