中村 豊2006「四国地域の亀ヶ岡式土器」『考古学ジャーナル』第549号 P17~20

はじめに
 1980年代頃まで、四国地域において、亀ヶ岡式土器は、縄文時代晩期土器の広域編年の基準として、大洞諸形式を視野に置く場合を除いて、ほぼ無縁であったといっても過言ではない。しかし、最近約15年間の、決して多くはない類例の蓄積によって、四国地域における亀ヶ岡式土器像は大きく転回しつつある。また、これらが四国地域の弥生時代像に与える影響も決して小さくはない。この点を踏まえつつ、論じてゆきたいと思う。

論じるにあたって

 四国地域は四方を紀伊水道、瀬戸内海、豊後水道、太平洋に囲まれた島である。今日でこそ、島を中心に据え、海を境界とみて「四国地方」として一括りに捉えることが多いものの、この意識をもって、当時を復原してしまおうとしてしまってはいけない。東北地域に分布の中心を持つ亀ヶ岡式土器を遠望するのであるから、当時の交通事情に配慮すると、媒介者としての海を重視すべきであろう。
 また、与えられたテーマに忠実になるあまり「亀ヶ岡式土器」のみに論点を絞ってしまうべきではない。四国地域において「亀ヶ岡式土器」の搬入品と目されるものは、現時点では高知県土佐市居徳遺跡群出土の大洞A式古相相当の土器がほぼ唯一の類例である。この事実を羅列するだけでは、今後の発展性、研究の展開をのぞむことはできない。縄文晩期後半から弥生前期初頭にかけての四国地域の歴史的位置を、列島東部とのかかわりに配慮して描いていくことを本論の将来的な展望とするのであれば、浮線文土器、さらには列島東部との交流の痕跡を残す土器をも含めて論じる必要がある。また、あとで詳しくとりあげるが、四国地域の亀ヶ岡式土器を論じる場合に注意しておかねばならないのは、近畿地域以東とは異なり、時間的には大洞式でも後半の形式との関わりに限定されるということである。それは、必然的に本地域の、遠賀川系土器を含む前期弥生文化のあり方を問うことになるから、後続する時期についても言及させていただく。

四国地域の亀ヶ岡式土器

 四国地域の亀ヶ岡式土器は、小林青樹氏による集成研究にその到達点が示されている。小林氏の研究から年を経ていないこともあって、その後あまり類例の増加をみていないが、いくつか報告書が刊行されつつあるので、その成果もふまえて論じてゆきたい。
(1)亀ヶ岡式土器
 四国地域では、大洞B式から大洞C2式にかけての前半期の亀ヶ岡式土器は出土していない。しかし、近年、晩期最終末の土器から弥生前期前葉の土器にともなって、大洞A式併行の土器が出土しつつある。
 すでに述べたように、四国地域で、唯一亀ヶ岡式土器の搬入品として確実視できるものは、高知県土佐市居徳遺跡群例である。図1−1は、波状口縁で、口縁部内外面に隆帯による加飾をおこない、胴部に同じく隆帯による方形区画を描く壺形土器である。外面には黒漆の上に赤漆を塗布している。岩手県山王囲遺跡に類例を認めることができる、大洞A式古相の土器である。ほかにも数点の個体が出土している。
 この他にも愛媛県今治市阿方遺跡SR06では、赤色顔料によって、方形区画・I字状の文様を施した浅鉢が出土している。
 いずれも包含層ないし流路資料で、共伴する在地の土器を確実には明らかにしがたい。しかし、阿方遺跡例は、突帯文土器でも後半の、2条突帯の深鉢を特徴とする晩期最終末の土器で、遠賀川系土器を欠いている。
(2)浮線文土器
 この時期に東北南部から中部地方にかけて盛行する浮線文土器も認められる。浮線文土器は最古相のものではなく、離山段階(大洞A式新相併行)以降のものが多い。徳島市三谷遺跡、同庄・蔵本遺跡などに類例を認めることができる。これらは、2条突帯の最終末の突帯文土器から、遠賀川式土器の前葉土器に伴って出土することが多い。
(3)列島東部との交流の痕跡を残す土器
 西日本の縄文晩期土器は、無文化の傾向にあるといわれてきた。しかし、細部を検討すると晩期末から前期初頭にかけて、列島東部との交流の痕跡を残す在地の土器が認められる。近年岡田憲一氏が提唱された、「三田谷文様」を持つ土器や、異形土器、波状口縁の浅鉢・深鉢などがこれに相当する。
 「三田谷文様」の土器は、三谷遺跡や居徳遺跡群で出土する。当初は北陸地方の後期末・晩期初頭の土器の影響を受けたと考えられたが、類例の増加とともに、縄文晩期後葉から弥生前期前葉の土器に伴うことが認識されつつある。いずれも三角形刳込文を特徴とする。これらの土器は、遠賀川系土器にみられる木葉文の起源を考える上で注目されている。居徳遺跡群例などはこれを示唆する興味深い類例である。
 これらに伴うとともに、波状口縁の浅鉢・深鉢をとくにあげておきたい。浅鉢は三谷遺跡や高松市東中筋遺跡に類例がある。これらの直接的な系譜はいわゆる方形浅鉢にあるとみられるが、この時期にみられる波状口縁の多単位化には列島東部とのかかわりをかいまみることができる。
深鉢は三谷遺跡や居徳遺跡群に好例がある。いずれも東南部四国沿岸部に分布の中心がある。注目すべきは、波状口縁が遠賀川式土器の甕にも導入されてゆくことである。最終的には弥生前期末・中期初頭まで残り、東南部四国を中心に、紀伊水道・瀬戸内海から東北部九州沿岸地方に類例が点々と認められる。好例は徳島市庄・蔵本遺跡や同南蔵本遺跡、香川県東かがわ市鴨部川田遺跡などにある。深鉢についても晩期後葉に加飾化が増し、波状口縁の多単位化傾向は浅鉢と同じである。
 斉一的といわれる遠賀川系土器にも、細部を観察すれば地域色を認めることは改めていうまでもない。ここで取り上げた波状口縁深鉢・甕は、突帯文土器から遠賀川式土器へと継続し、東南部四国沿岸地方に特有の1器種をなしている。そして、その成立の背景には大洞A式以降の亀ヶ岡式土器を含む列島東部系土器の流入が存在することは間違いない。ここに、本地域の前期弥生土器・文化形成を考えるにあたっての新たな局面をみいだすことができるのである。

まとめ

 以上、四国地域の(1)亀ヶ岡式土器、(2)浮線文土器、(3)列島東部との交流の痕跡を残す土器を概観した。すでにふれたように、本地域に亀ヶ岡式土器が流入するのは大洞A式以降である。この点、近畿地域以東にみられる亀ヶ岡式土器前半期の土器流入との背景の違いには十分注意せねばならない。
 大洞C1式までは、瀬戸内海と紀伊水道が障壁となって、亀ヶ岡式土器の流入は認められない。しかし、大洞A式および列島東部系土器は、中四国地域にまで流入する。これは、単に土器の移動を示すだけの問題にとどまらない。
 ちょうど同じころ、これらの分布と重なるかのように東部瀬戸内地方を中心に、結晶片岩製石棒が盛行する。これらの事象は、相互に関連なく単発的におこったものではなかろう。時代は大陸系の文物が陸続と流入するという形で大きく動いている。海を媒体に東西文化の交流が錯綜し、東部瀬戸内地域でこれらの出会いがある。そうしてこれは、遠賀川式土器が東方へ展開してゆく動向とも決して無縁ではない。
 今後は、かかる動向を十分にふまえた上で、この時代の歴史像を描いてゆかねばならない。(略)

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