近畿・東部瀬戸内地域における結晶片岩製石棒の生産と流通 2000.3小林青樹編『縄文・弥生移行期の石製呪術具1』科研費報告書 中村 豊

Ⅰ はじめに -日本人の起源・縄文から弥生と石棒研究-
1 日本人の起源と縄文から弥生
 日本人の起源は、日本列島に展開した歴史上最大の画期である縄文時代から弥生時代への変革をぬきには語れない。従来、縄文時代から弥生時代への変革は発展的に進歩する歴史の必然的な通過点であると考えられてきた。すなわち、狩猟採集にたよった縄文時代では平等で自給自足的な生活を営んでいた。しかし弥生時代になり農耕を導入すると余剰生産物が生まれ、社会的分業や階級が形成される。そしてこれらが拡大するとともに地域間の緊張関係が生じ、より大きな権力ついには国家の成立へと向かう。
 ところが最近の研究によると、縄文時代はすでに原始的な農耕をふくむ安定した生産性をほこり、広範囲にわたる交易、社会的分業をおこなっていたことが明らかになりつつある。従来の学説がゆるぎつつある今、まさに縄文から弥生への変革をとらえなおす時期にきているのではないだろうか。今回の研究も、この課題の一端を明らかにするためにおこなったものである。

2 縄文・弥生移行期と石棒研究 -近畿・東部瀬戸内地域の場合-
 以上のような動向のなかで、私は現在、生産・流通形態が縄文と弥生で具体的にどのように変化していったのか、また、どのように異なるのかという点に関心を抱いている。
 これを進めるのに有効な方法は、縄文・弥生を通して流通し、しかもある程度地域を絞り込める文物に焦点をあてて、その生産・流通・分布の変遷を明らかにするというものである。(略)
 この結晶片岩を素材とした石器のなかで、私が特に着目したのは石棒である。石棒は、弥生時代になるとまもなく消滅する。いわば縄文時代特有の文物であって、時代の変化をとらえるのに適している。
 今回の研究では、縄文時代晩期後半から弥生時代前期初頭にかけて、近畿・東部瀬戸内地域で特徴的に分布する結晶片岩を素材とする粗製大型石棒の分布および生産・流通状況を把握する。そこから、縄文時代最終末の生産と流通の特色を可能な限り探りたい。(略)

Ⅱ 縄文晩期後半における結晶片岩製石棒の生産と流通
1 縄文晩期後半の石棒
(略)

2 結晶片岩製石棒のおもな分布範囲
 突帯文土器の直前である篠原式のころまでは石刀や精製の石棒が主流であり、これらは粘板岩やホルンフェルスを素材としていた。姫路市堂田遺跡例は粘板岩製の精製石棒であり、神戸市篠原遺跡例は黒灰色を呈する石材の石刀である。続く滋賀里Ⅳ式や船橋式といった突帯文土器の古い段階の遺跡からは結晶片岩製の粗製石棒が出土するが、あまり多くない。結晶片岩製の粗製大型石棒が盛行するのはさらに後の、神戸市大開遺跡・伊丹市口酒井遺跡・大阪市長原遺跡など、晩期最終末の長原式から弥生前期でも初頭のころである。
 私の現時点の集成では、これら石棒は30遺跡135点の出土を確認することができ、分布は大阪湾沿岸地域(兵庫県南部から大阪府堺市付近)を中心とする地域に集中している。以下その類例を概観しよう。
徳島県 徳島市三谷遺跡から20点、同市名東遺跡から4点、三好町土井遺跡から1点、同町大柿遺跡から6点出土している。比較的残存率の高い個体が多く、注目すべきは三谷遺跡から2点、名東遺跡から1点の未製品が出土していることである。名東遺跡例は素材に剥離を加え、一部に研磨を施したもので、自然面も残存しており、素材の原型をよくとどめた個体である。三谷遺跡例は、素材の剥離後に敲打し始めた段階のものと、敲打がほぼ終了した段階のものである。他県からは現時点では未製品は出土していない。土井遺跡例は紅簾片岩で、超大型品である。(略)
兵庫県 (略)神戸市大開遺跡(略)・伊丹市口酒井遺跡などから出土している。(略)
大阪府 大阪市亀井遺跡・同市城山遺跡・同市長原遺跡・八尾市田井中遺跡・同市八尾南遺跡(略)などから出土している。未製品はなく、破損したものが多い。(略)

3 結晶片岩製石棒の生産と流通
以上、近畿・東部瀬戸内地域を中心とした縄文晩期後半〜弥生前期初頭に分布する結晶片岩製石棒は、どこで生産され、各地域へと流通したものであろうか。これを解明するために、以下の5つの条件を設定した。
①未製品の分布
 すでに述べたように、未製品は三谷遺跡の2点と、名東遺跡の1点計3点を確認している。この2遺跡は同じ徳島県に位置する。
②結晶片岩の産出地と未製品との関係
 三谷・名東両遺跡の位置する徳島県の吉野川南岸は石棒の素材である結晶片岩の産出地でもある。すなわち、未製品の分布と素材の産出地とが一致したことになる。
③遺物の出土量・完存率
 三谷・名東両遺跡が製作遺跡ならば、当然他地域よりも出土量が多いと考えられる。ところが、大開遺跡で12点、口酒井遺跡で13点、長原遺跡で22点と両遺跡を凌駕する点数の石棒が出土している。しかしながら、小片でもカウントするため、単純に点数を比較するだけでは出土量が多いとは限らない。そこで、徳島の三谷遺跡・名東遺跡・大柿遺跡と、大開遺跡・口酒井遺跡・長原遺跡の完存品数および平均残長と平均重量を比較した。
 完存品は三谷遺跡3点、名東遺跡2点で、他の遺跡はすべて破片である。平均残長は三谷遺跡27.4㎝、名東遺跡27.4㎝、大柿遺跡21.4㎝に対して、大開遺跡14.5㎝、口酒井遺跡9.1㎝、長原遺跡11.7㎝と徳島の3遺跡が他の3遺跡を大きく上回る。次に平均重量は三谷遺跡1663.8g、名東遺跡1402.3g、大柿遺跡1057.4g、に対して、大開遺跡425.9g、口酒井遺跡287.5gとこちらも徳島の3遺跡が圧倒的に上回る。以上から、出土点数はみかけの数字にすぎず、実際は未製品を有し、結晶片岩の素材を産出する徳島の諸遺跡が最も多くの石棒を保有していることがわかる。
以上のほかにも、
④その他の遺跡で結晶片岩製石棒が出土する時期と、三谷遺跡・名東遺跡の存続期間とがほぼ一致する。
⑤私自身の肉眼観察によって、三谷遺跡と他地域の石棒の材質・色調がほぼ一致することが確認できた。また、紅簾片岩は三谷遺跡からは出土していないが、遺跡の南に位置する眉山の北斜面に露頭が存在し、遺跡付近の谷にも転石があり、容易に採集できることを確認できた。
 以上5つの条件をクリアしたことによって、近畿・東部瀬戸内地域に分布する石棒の多くが、三谷遺跡をふくむ徳島県の遺跡で生産されたとみて間違いないであろう。(略)

 Ⅲ まとめ -三谷型石棒の提唱-
 今回の研究における最大の成果は、縄文・弥生移行期という歴史の転換点において、近畿・東部瀬戸内地域を中心に結晶片岩製の粗製大型石棒が分布し、その生産地として三谷遺跡をほぼ特定できたことである。(略)
 ここで問題となるのは、縄文晩期前半まで小型化・精製化という方向性にあった石棒が、縄文時代晩期後半に突如として再び粗製化・大型化し、弥生前期初頭にかけて、この地域でさかんに流通したのかということである。このような縄文文化に強く固執しようとする動向は中部瀬戸内地域以西ではみられなかったことである。
この時期は、ちょうど新しい儀礼・社会のしくみが伝わる時期に相当する。これに敏感に反応して、縄文社会を維持しようとする意識がはたらいた結果、伝統的な儀礼をさかんにおこなうにいたったのではないだろうか。これが、三谷型石棒の分布という形で明確に現れたと理解するのである。おそらく背景には、縄文時代以来の近畿・東部瀬戸内地域における活発な交流を通したある種の文化圏が存在したのではないだろうか。すなわち、近畿・東部瀬戸内地域が、中部瀬戸内以西の地域よりも縄文時代の伝統的な社会・それを維持するシステムを保持しようとする下地があったことを示していると私は考えている。

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