「歴史像」(中村 豊)
今大会のテーマは、「中四国地域における縄文晩期後葉の歴史像」である。実際はわたしも含め、土器の変遷をもとに、農耕の起源を視野において生業を明らかにし、地域社会の変化を概観するにとどまっている。それでも「歴史像」という表題をあえて採用したのは、考古学に取り組む以上、単に資料を技術的に動かすだけではなく、歴史に関わろうとする意識を忘れるべきではないというねらい(願い)が込められている。
縄文時代から弥生時代への変化は、明治期〜戦前にかけては、おもに民族の移動、すなわち文化伝播論にもとづいて描かれてきた。資料もこれに沿った叙述の形成に役割をはたしてきたといえる。この民族の移動にもとづく歴史像形成に大きな役割をはたした鳥居龍蔵は、ヨーロッパの最新の研究動向を取り入れ、後進を指導した。そのなかには型式学的研究法(編年)や生産力の発展にもとづく歴史像も含まれるのである。その鳥居門下生のひとりが山内清男であった。
その後山内清男の活躍もあって、土器編年研究の重要性が認識されるとともに、1930年代以後はおもに農業の起源を生産力の発展としてとらえる立場から歴史像を描くことが主流となり、資料もこれに沿った評価を受けてきた。とくに第2次大戦以後は、ソ連邦の強い意向を受け、地理的環境の影響を廃した「世界史の法則」の一環として歴史上の必然的な通過点として単純化する傾向が強かったといえる。
1990年代以後、生産力の発展にもとづく歴史像が揺らぎをみせ、また、この間に資料が爆発的に増加した。いまわれわれはこれにいかに向き合うかという状況におかれている。それでも意識するか、しないかにかかわらず、先学の築いてこられた歴史像の有形無形の恩恵を受け、当該期の資料にむきあい、文章を叙述することにかわりはない。そして、この恩恵は実証主義を自任する立場から無意識に書かれた文章にも確実に読み取ることができるのである。
近年歴史観・文化観を廃して実証主義に徹するべきであるという意見を聞くことがある。しかしこれは思考停止を正当化する言い訳にすぎないだろう。資料を一定の技術にしたがって操作し、一定のパターンにのっとった記述をおこなう。これはもはや考古学ではなく、工業規格品の生産や単純労働と変わりはない。
今われわれのもとにある、進歩した研究法、豊富な資料を駆使して先学の築いてこられた歴史像を批難するのは容易なことだ。しかし、歴史像の責任を先学に転嫁し、みずからの思考を停止した実証主義という名の器械が生産する工業規格品にこれが克服できるようには思えない。
先学の蓄積してこられた歴史像を視野に自らの歴史意識を表現する。そのために資料と向き合う。研究方法の進歩や資料の増加に応じてこれを修正する。これがあるべきフェアな姿ではないのだろうか。たとえば、近年の新しい研究法であるレプリカ法は、丑野毅氏や中沢道彦氏のこのような道程と真摯な姿勢によって開発され、発展し、普及してきたものであろう。
表題の「歴史像」にはこのようなねらい(願い)が込められているのである。(2014.7.5『中四国地域における縄文時代晩期後葉の歴史像』中四国縄文研究会より)