⑯中村 豊2014中四国地域における縄文時代精神文化について —大型石棒・刀剣形石製品を中心に−『山陰地方の縄文社会』島根県古代文化センター研究論集第13集 P23~42

はじめに
 本州島西部および四国島(以下中四国地域)は、元々縄文時代の資料自体あまり多くない。近年の資料蓄積によって、ようやく精神文化関連資料についても、ある程度の様相をうかがうことが可能となりつつある。これは、中四国地域の中では縄文時代資料の豊富である山陰地域においても認めることができる。これらを駆使した諸研究がおこなわれる背景が存在する上、すでに、2011年に中四国縄文研究会において、精神文化関連資料は中心テーマとして取り上げられたこともあって、山陰地域をフィールドとする当該研究は蓄積されている(中四国縄文研究会2011)。ここでは、視野を中四国地域まで広げた上でその展開を概観し、山陰地域の精神文化資料とも関連の深いテーマについてとりあげていきたいと思う。
 前半部分で、中四国地域における精神文化関連資料に関する資料に関して、研究動向に言及しつつ、全体的な概観をおこなう。後半部分では、筆者が1998年以降、縄文/弥生移行期を中心とする結晶片岩製大型石棒(以下結晶片岩製石棒)の研究を重ねてきた(中村1998、2001、2005、2007等)経緯をふまえて、結晶片岩製石棒の展開とその山陰地域への波及、山陰地域で独自の展開をみせる角柱状大型石棒(以下角柱状石棒)に言及する。その上で、縄文/弥生移行期の地域社会の展開について概観したい。

1.中四国地域における縄文時代精神文化関連資料の概観
(1)縄文草創期〜中期
(略)

(2)縄文後晩期
(略)

2.中四国地域における大型石棒および刀剣形石製品の展開
(1)大型石棒と刀剣形石製品の展開概観
(略)

3.石棒からみた地域社会
(1)大型石棒・刀剣形石製品の出土状況
 縄文後期中葉〜縄文/弥生移行期を通して、中四国地域を含む列島西部諸地域において、大型石棒は遺物包含層などから単品で出土するケースがほとんどであるが、なかには遺構や墓域付近からの出土例を確認することができる。たとえば、縄文後期中葉の大宮・宮崎遺跡では、第11・12号配石遺構から計1点出土している。縄文晩期中葉の池の内遺跡では、SK39・SP146の2か所の土坑から1点ずつ出土している。
 縄文晩期後葉の上郷遺跡や徳島県三好郡東みよし町土井遺跡でも、土坑から石棒1点が出土している。同じく縄文晩期後葉の板屋Ⅲ遺跡や門遺跡例は、墓域からの出土であり、埋葬儀礼との関わりがかんがえられるものである。智頭枕田遺跡例も、配石遺構との関連性が指摘されている。
 同じ縄文晩期後葉では、西条市長網Ⅰ遺跡、阿方遺跡などで、土坑からの出土がみられる。また、松山市別府遺跡や東中筋遺跡、井出東Ⅱ遺跡、本高弓ノ木遺跡、津島岡大遺跡のように、自然流路や旧河道から出土するケースもみられる。基本的には、1遺跡から1〜2点完形品に近い形で出土するケースが多い。
 縄文晩期後葉になると、1・2点が出土するケースに加えて、4点以上、遺跡によっては20点をこえるものが出土する類例がみられるようになる。
 縄文晩期後葉の三谷遺跡、名東遺跡などは、上記1〜2点出土の遺跡とは異なった出土状況をみせる。すなわち、三谷遺跡は貝層の堆積する自然凹地(7体のイヌの埋葬がみられる)から18点以上(写真1、写真3−2〜4。未公表資料や、戦前出土し散逸したものを含めると、30点ほどになる。)の石棒が出土している(第4図)。また、名東遺跡でも自然凹地から4点が出土している。大柿遺跡でも6点が出土する。さらに、無頭形が多い縄文晩期中葉までとは異なり、確実に有頭形が認められるようになる。たとえば、三谷遺跡では、18点中3点が有頭形である(写真3−4)。
 これと同様4点以上の石棒が出土する類例は、結晶片岩製石棒の消費先である中国・関西地域でも認められる。智頭枕田遺跡、大阪市長原遺跡、伊丹市口酒井遺跡、神戸市大開遺跡、東大阪市弓削ノ庄遺跡、和歌山県日高郡みなべ町徳蔵地区遺跡、同県西牟婁郡すさみ町立野遺跡、大和高田市川西根成柿遺跡のように、4・5点〜20点程度まとまって出土するケースがみられる。そして、これらの遺跡には、有頭形が含まれる場合が多い。
 縄文晩期後葉における大型石棒の盛行は、直接的な系譜は縄文後期中葉〜晩期前半に、四国地域に展開する大型石棒にあるとみられる。しかし、結晶片岩という同一石材のものが、以前みられたような多様な石材をもちいた諸地域の枠をこえた遠隔地にいたるまで展開することや、特定の遺跡で多量に出土するようなケースがみられるようなこと、型式学的には有頭形のものが増加することなどは、あきらかにそれ以前とは異なる意味をもつものである。
 さらに、列島東部に分布の中心があった石棒が、関西〜中四国地域において同時代の列島でもっとも盛行する歴史的背景はどのようにとらえるべきものであろうか(図5)。
 このころ、中四国東部地域で盛行する大型石棒に対し、九州北部〜四国西部地域を中心に大陸系の精神文化がもたらされる。その代表的な遺物は、有柄式磨製石剣である(図5、下條1994、武末1982)。有柄式磨製石剣は、松山平野や田村遺跡、高松市庵治町沖の海底(図6−1)などで出土している。分布状況は四国西部地域に偏りをみせている。一部分布域は重なりつつも、中四国東部地域に分布する大型石棒と好対照をなしている(図5、中村2004・2005)。中国地域ではいまのところみられないが、西部地域へと伝播してきた新たな精神文化との出会いが、東部地域における伝統的な精神文化の盛行を促したものとかんがえられる(中村1998・2000b・2001・2004・2005・2007・2008・2009・2010)。そうして、有頭形の大型石棒や大洞系土器、漆工芸・赤彩・木工技術などの流入にみる、列島東部地域との交流が活発化するあり方も、このような動向と連動するものではなかろうか。浮線文土器の分布は、概ね大型石棒が盛行する地域と重なるのである。
 なお、似たような類例が、山陰地域縄文晩期中葉の原田遺跡にもみることができる。同遺跡では、20点ほどの刀剣形石製品と中型の半精製石棒がまとまって出土している。
 稲田陽介(2008・2009)はこれを、周辺の遺跡を結びつける中心的な集落を示すものと評価する。原田遺跡の特徴は、土器埋設遺構や配石遺構がみられるところにあるといえる。これら精神文化関連遺構や石棒類を使用した祭祀を通して、周辺の小規模集落がむすびついて、ひとつの地域社会を形成していたともかんがえられる。
 原田遺跡出土の石棒類のうち、3〜4点結晶片岩製大型石棒がみられる。原田遺跡では、縄文晩期後葉の土器も出土しており、これらは中四国地域のほかの遺跡との比較から縄文晩期後葉とみるべきであろう。石棒類の所属時期決定は慎重におこなわなければならないが、それでもなお、刀剣形石製品の盛行する縄文後期〜晩期中葉を通して原田遺跡の出土数は飛び抜けており、この遺跡を縄文晩期中葉地域社会の核となるべき集落と評価するのは妥当であるとかんがえられる。

(2)地域社会の変容と大型石棒の終焉
 筆者はこれまで、結晶片岩製大型石棒の出土相から、縄文晩期末〜弥生前期初頭の地域社会の動向について論じてきた(中村2007・2008・2009・2012・2013)が、ここでは、縄文後期からの展開を含めて概観していきたい。
 大型石棒の出土する遺跡は、下記のように、大きくみて3つの類型に分類することが可能である(中村2009を修正)。

A:1遺跡から1〜3点程度の石棒が出土する。土坑や流路、配石など、遺構から出土することもあるが、1・2点の出土にとどまる。大宮・宮崎遺跡、庄遺跡、池の内遺跡など、縄文晩期中葉以前は、大半がこの類型に属する。縄文晩期後葉にも、同様の類例は継続する。
B:1遺跡から4・5〜20点程度のまとまりをもって出土する。縄文晩期後葉の東部地域に特徴的な類型である。三谷遺跡、名東遺跡、大柿遺跡といった徳島の遺跡のほか、智頭枕田遺跡、居徳遺跡もこの類型に属する可能性が高い。同様のものは、関西地域にも認められる。
C:溝・灌漑用水路をもち、遠賀川式土器を使用する弥生時代初期の遺跡。田村遺跡、善通寺市龍川五条遺跡、神戸市大開遺跡などがこれに相当する。

 縄文晩期中葉以前は、基本的には上記Aの遺跡が点在するか、Aに大型石棒をもたない遺跡が結合して地域社会を形成していたものであろう。こうした様相は、縄文晩期後葉にも継続したとみられる。山陰地域の大半はこれに該当するとかんがえられる。
 縄文晩期後葉の四国東部地域や東部瀬戸内地域〜紀伊水道沿岸地域では、上記Bを中心に複数のAや石棒を持たない遺跡が、大型石棒をもちいた儀礼を通して有機的に結合するような地域社会を想定できる。その典型例は、三谷遺跡を核とする鮎喰川東岸・眉山周辺の遺跡群や長原遺跡周辺である。山陰地域では、智頭枕田遺跡がこれに該当する可能性がある。
 一方Cは、A・Bが灌漑水田稲作経営にともなう協業の必要性から集住化することによって形成されたもので、大型石棒は集住化の過程でもち込まれたものか、Bが立地をかえずにCへ移行したものであろう。縄文晩期末〜弥生前期初頭は、A−BとCが併存する形で展開していたのではなかろうか。A−B・C併存期、すなわちC成立当初は、A−BとCとの間にも交流はみられたと想定できるので、津島岡大遺跡の井堰出土例にように、大型石棒をもちいた儀礼は継続したとみられる。あるいは、交易によってA−Bよりえた可能性もある。大型石棒の分布圏は、おなじような境遇にあった、A−BまたはA−B・Cどうしの交流、すなわち儀礼の共有を意味するのであろう。
 しかしながら、Cは灌漑水田稲作経営にともなう協業によって、日常的に結合しているのであるから、A−Bを成り立たせていた、地域社会を維持するための大型石棒儀礼は、やがて衰退した。また、C内部では大陸系ないし、特有に発達した新たな精神文化が、大型石棒にかわって力を発揮していったものと推察される。たとえば、龍川五条遺跡のように、大型石棒を石剣へ再加工するようなこともみられた。さらにCが灌漑水田稲作経営を、より大規模なものへと推し進める過程で衰退した可能性も高い。
 Bが発達せずCの拡大が早かった中四国西部地域(山口、広島や愛媛の一部)に続いて、東部地域においてもCは弥生前期中葉〜後葉にかけて拡大し、Bは衰退する。Aは以後も細々と展開したであろうが、Bの衰退によって、大型石棒をもちいることもなくなった。またはCの集住化に加わったものもあったであろう。ここに、大型石棒は、その役割を終えるのである(註6)。

(3)大型石棒・刀剣形石製品からみた縄文晩期後葉の山陰地域
 山陰地域においても、縄文晩期後葉の遺跡から大型石棒が出土するケースが多くみられる。上記で検討した、関西〜東部瀬戸内地域の資料にもとづく分類と比較するため、以下の3つの類型に分類して検討を加えてみたい。

a1:結晶片岩製の石棒が、1〜2点出土するケース。大蔭遺跡・原田遺跡・森Ⅰ遺跡・門遺跡・板屋Ⅲ遺跡などがこれに該当する。関西〜東部瀬戸内地域のA型集落に相当しよう。
a2:角柱状石棒が1〜2点出土するケース。蔵小路西遺跡、青木遺跡、長砂第3遺跡などがこれに該当する。これも関西〜東部瀬戸内地域のA型集落に相当すると考えられる。
b :結晶片岩製の石棒、角柱状石棒など複数型式の石棒が数点以上まとまって出土するケース。智頭枕田遺跡、本高弓ノ木遺跡などがこれに該当しよう。関西〜東部瀬戸内地域のB型集落がこれに相当すると考えられる。
c :関西〜東部瀬戸内地域のC型集落がこれに相当する。現時点で山陰地域にはみられないが、潜在的にはその存在を想定しておきたい。

 関西〜東部瀬戸内地域と比較して、b型集落の数が少ないように見受けられる。しかしこれは、結晶片岩の大量生産がおこなわれた、三谷遺跡などと地理的な隔たりがある点も考慮すべきであろう。山陰地域独特の角柱状石棒の展開がみられたところなどからみても、地域社会において、石棒祭祀が重要な役割をもったことは間違いないといえるだろう。
 山陰地域においては、基本的にa1・a2型の集落が地域社会を結びつける核となるような存在であったものとかんがえられる。とくに、結晶片岩製石棒は、中国山地を介して運ばれた貴重なものであり、遠隔地交易に際しての窓口となるような、地域社会における中心的な集落が祭祀に際してもちいたものと考えられよう。すなわち、関西〜東部瀬戸内地域におけるB型集落と同様の役割をはたした集落の存在は想定してもよいだろう。
 本高弓ノ木遺跡や智頭枕田遺跡は、山陰地域では数少ないb型の集落である。本高弓ノ木遺跡例は、旧河道からの出土であり、集落域や墓域にはまだ未発見の石棒がみられる可能性がある。また、多数の杭を打ち込んだ井堰状の遺構がみつかっており、これらの技術は灌漑水田稲作と密接に関わるものとかんがえられる。
 智頭枕田遺跡は、関西〜東部瀬戸内地域に特徴的な結晶片岩製石棒と、山陰地域に特徴的な角柱状石棒という地域色の異なる石棒と、東方の遠隔地より搬入されたとかんがえられる刀剣形石製品とが集積されている。B・b型集落に特徴的な、多数の石棒が集積される状況にくわえて、時期・地域を跨いだ複数型式の呪術具が集積される状況は、のちの「埋納」の起源をかんがえる上でも興味深い類例といえるのである。
 なお、山陰地域とほぼおなじような様相は、四国南部地域にもみられたと考えられる。地元産石棒が2点出土した仁ノ遺跡はA(a2)型に相当し、結晶片岩製石棒と地元産の緑色岩製石棒がともなう居徳遺跡はB(b)型、遠賀川式土器系集落の田村遺跡はC(c)型に相当するとみて大過あるまい。

4.石棒祭祀の終焉と青銅器祭祀
 大型石棒は、灌漑水田稲作経営が拡大し、地域社会が集住化するとともに、その役割を終える。以後、石棒祭祀に変わる祭祀が展開していくこととなる。近年、石棒祭祀と青銅器祭祀との地域性に共通点のあることが指摘され、祭祀の地域色が、縄文から弥生へと継続する可能性についての言及もみられるようになってきた。
 難波洋三氏は、菱環鈕式銅鐸と外縁付鈕Ⅰ式銅鐸といった、古式の銅鐸(図6−2・3)の分布が、特定の中心地に集中するのではなく、すでに東海・北陸西部〜中四国東部といった、広域にみられることから、銅鐸祭祀成立以前に、銅鐸祭祀に継承されていくなんらかの共通の祭祀によって、まとまった地域圏をすでに形成していた可能性を指摘している(難波2000)。
 筆者は縄文晩期末〜弥生前期初頭に展開する結晶片岩製石棒の分布圏が関西〜中四国東部に展開することを指摘し、同時代の北部九州〜中四国西部に大陸系の祭祀具である有柄式磨製石剣が展開し、列島西部を東西に二分した祭祀具の分布圏がみられることを見出した(中村2004)。また、難波の研究を受けて、これがのちの銅鐸と武器形の青銅製祭器の分布に類似していることを指摘し、この両者の関連性を予察した。本稿でみた、山陰地域における角柱状石棒の分布域と、四国南部地域における緑色岩製石棒の分布域も、この分布圏に含めてとらえることのできるものである。
 近年、茨木市東奈良遺跡出土の小銅鐸(図6−2)が、型持ち孔の位置や鈕の断面形態、バリがみられないなどの朝鮮式小銅鐸との類似性から、菱環鈕式銅鐸をさかのぼり最古に位置づけられるという意見がある(森田2002)。さらに、その文様が三田谷遺跡や三谷遺跡にみられるような有文土器や北陸・東海東部にみられる浮線渦巻文土器などの文様と類似している点が指摘されてきている(設楽2009・2013)。菱環鈕式銅鐸の製作が弥生前期末・中期初頭であり、東奈良の小銅鐸がこれをさかのぼる弥生前期中葉の製作と想定できるのであれば、A−B型集落とC型集落の併存が解消される段階とほぼ一致するのである。すなわち、大型石棒祭祀の終焉と銅鐸祭祀の起源とのあいだには、断絶はみられないこととなるのである。
 石棒祭祀の衰退は、灌漑水田稲作経営とこれに関連する協業にともなう集住化であると推測される。集住化によって地域社会は解体し、これを維持する役割をはたしていた石棒も終焉をむかえた。しかしながら地域社会間をむすびつける紐帯は堅持されたものとかんがえられる。結晶片岩製石棒と銅鐸の分布圏が概ね一致する理由はそこにあるとかんがえられる。
 やがて、弥生前期末・中期初頭を画期に弥生前期前半に形成された灌漑水田稲作経営を軸とする地域社会は、不安定な堆積環境(洪水による災害)もあって一旦解体する。瀬戸内海沿岸地域では、弥生前期から弥生中期前半へ継続的に拡大発展する集落はあまりみられない。この弥生中期前半期に地域社会をむすびつける祭器として,あらたな機能をはたしていったものが銅鐸ではなかったか。
 石棒祭祀は、地域社会の核となるA・B・a・b型集落において執り行われたと考えられる。とくに、縄文晩期後葉になると、B・b型集落において、多くの石棒が集積されることとなる。なかには智頭枕田遺跡のように、新旧型式や複数地域の型式が集められることもあった。その後、集落内でおこなわれていた祭祀は、いつしか集落から分離する。新旧・複数地域の型式の遺物が集落から離れた位置に集積される埋納は、ここに起源するのではなかろうか。

まとめ
 本稿では、本州島西部および四国島(中四国)地域における縄文時代精神文化について、石棒を中心に論じてきた。中四国地域の縄文時代精神文化は、大きくみて縄文草創期〜中期後葉(縄文前半期)と、石棒や土偶などが一般化し、配石遺構や土器棺墓などの類例が増加する縄文中期末・後期初頭〜晩期(縄文後半期)に分けることができよう。
 縄文前半期では、玦状耳飾や上福万遺跡、久代東山岩陰遺跡、中ノ坪遺跡などで配石遺構(墓)の展開がみられるものの、基本的に後半期へと継続して展開していくものはあまりみられない。
 縄文後半期では、土偶、石棒、玉類、配石遺構、土器棺墓などほかの列島西部地域同様縄文時代の精神文化を代表する文物が揃って展開する。しかし、地域性が顕著であり、とくに土偶は中国地域とくに山陰地域において濃密に分布し、他地域、特に四国地域においてはあまりみられない。土器棺墓は関西地域、東海地域、北陸西部地域のように群集するような類例はみられないが、配石遺構は、山間部を中心に比較的多くみることができる。
 中四国地域では、石棒が地域性に関係なくもっとも普遍的に分布する。筆者の関心もあって、石棒を軸に縄文後晩期の地域社会に関して考察をくわえた。
 中四国地域では、縄文中期末・後期初頭〜後期前葉に大型石棒を東方より導入する。石材は多様なものがもちいられた。石棒は,特定の遺跡から1〜2点出土する。これらをA・a型の集落とした。石棒出土遺跡は地域社会の中心的な遺跡で、これに石棒をもたない小規模な遺跡が組み合って地域社会を形成していたとかんがえた。
 縄文後期中葉〜晩期中葉にかけて、中国地域では刀剣形石製品が展開するようになる。一方、四国地域では石棒が継続した。石材は多様であり、1〜2点出土する遺跡が多い。縄文中期末・後期初頭〜後期前葉同様A・a型の集落を中心とする地域社会がみられた。他方、原田遺跡では、石棒・刀剣形石製品のまとまった出土がみられた。後のB・b型集落の萌芽的な様相をみることができよう。
 縄文晩期後葉〜縄文/弥生移行期には、ふたたび大型石棒が広く展開した。石棒の出土点数は多く、関西地域も含めると、同時代の列島でもっとも盛行するようになる。四国地域において継続的に展開した大型石棒祭祀が、縄文から弥生へと移行する歴史的背景の下、中四国地域のみならず、列島西部東半の広い地域で受け入れられた。石材は、結晶片岩製のものが、三谷遺跡を中心に多量に生産され、西部地域をのぞくほとんどの地域にもたらされる。山陰地域の角柱状石棒、四国南部地域の緑色岩製石棒といった地域的な展開をみせるものもみられた。また、それまでと異なり、一遺跡から4点以上出土するB・b型の集落がみられるようになる大きな特徴をもつ。石棒祭祀は、これらの遺跡を中心に、地域社会を維持する目的で機能したものと考えた。背景には、北部九州〜中四国西部において、いち早く灌漑水田稲作経営を軸とする地域社会が平野部において形成され、有柄式磨製石剣にみられるような大陸系の精神文化が展開しつつあったからである。やがて石棒祭祀は、灌漑水田稲作の導入と大規模化にともなう集住によってその役割を終えることとなったのである。
 従来、弥生時代に展開する青銅器祭祀は、農耕にともなう祭祀として縄文時代の祭祀とは一線を画して理解されてきた。近年、縄文晩期末の石棒祭祀盛行地域が、のちの銅鐸分布圏と重なることが指摘されている。山陰地域は弥生時代に多量の青銅器を埋納することで知られている。本稿でも石棒祭祀から青銅器祭祀への移行や、埋納の起源に関しても予察したが、詳細は今後の課題としたい。
 
(略)


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