研究倫理
学部生のころ。史学概論や日本史研究入門で学んだことがある。戦前、実証主義は愛国主義や軍国主義に抗することができなかった事実が厳然としてある。また戦後、歴史的多様性と歴史的選択肢を排除した政治的「教程」、すなわちマルクス主義の仮面を纏った「理論」に盲目的に従うことによって、全体主義の悲劇に間接的に加担してきた。これらの反省に立つ以上、資料を実証的な方法に則って事実を明らかにし、叙述の過程で「理論」を「参照」することは前提であって本論ではない。結局歴史研究は自分自身の思想や歴史意識を叙述する場にほかならない。すなわち、歴史研究から思想や歴史意識を取り去った実証や理論は形骸にすぎないということである。
私は、今もってこれを愚直に実践しているつもりである。卒論から修論の過程においても、人とは異なる自分自身の研究を追い求めていた。何をテーマにすれば先行研究と異なる自分自身の思想と歴史意識を表することができるのか。常に自らに問いかけてきたつもりである。
素材となる資料・テーマが重複することはよくあることと思う。しかし、それを歴史的文脈へ位置づけるとき、思想・歴史意識の相違は必然的に生じてくるものである。人と同じ思想・歴史意識をトレースすることは絶対にありえない。私が考古学・歴史に取り組む意味はここにあるといえるからである。いや、考古学・歴史のレーゾンデートルといっても大げさではない。
先行研究からストーリーを盗んで資料をすり替えて自分のものにする。「不正」にならなければ何でもあり。そんなうわべだけの営為は歴史でも考古学でもない「ぬけがら」か「工業規格品」に過ぎない。
「日本の原像」や「読書」を読めば一目瞭然だが、新聞記者は所詮素人だから、研究の本質まで掘り下げて読み解くことはできない。だから私は、今後も新聞記者ではなく、私の研究を批判、評価してくださる先学・同学のために書き続けたいと思っている。