近畿・瀬戸内地域における石棒の終焉 −縄文から弥生−  中村 豊編2001『縄文・弥生移行期の石製呪術具3』文部省科学研究費報告書 P49~86

はじめに
(略)


 Ⅰ 「縄文から弥生」と石棒研究 -近畿・瀬戸内地域の場合-
 以上のような動向のなかで、今回私がとりあげる文物は石棒である。なぜなら、石棒は土偶とともに縄文時代を代表する呪術具のひとつであって、弥生時代になるとまもなく消滅し、時代の変化をとらえるのに適しているからである。すなわち、縄文時代特有の儀礼が、どのようにして終焉していったのかという側面を明らかにできる可能性を持っているといえよう。
 最近この石棒が、縄文から弥生にかけての近畿地方から瀬戸内地方に特徴的に分布することが明らかになりつつある。これが時代の移り変わりといかにかかわるのか、現状はこの研究課題を推し進める絶好の機会であるといえるだろう。
さらに、この近畿・瀬戸内地方の縄文から弥生にかけて分布する石棒が、ほとんどすべて結晶片岩製であるという事実は、上記の研究を深めるの(に)大いに役立つと考えられるのである。なぜなら、それは生産・流通が縄文と弥生とで具体的にどのように変化していったのか、また、どのように異なるのかという点をも解明できる可能性を秘めているからである。(略)

 Ⅱ 石棒終焉に関する研究の歩み
1 戦後から近年までの研究史概略
(略)
2 最近の動向と課題
 以上のような動向のなかで、転機となる2遺跡での発見があった。それは、神戸市大開遺跡と徳島市三谷遺跡である。
大開遺跡では、近畿地方でも最古の遠賀川式土器にともなう環濠集落が発掘されたが、そこから結晶片岩製の石棒12点が出土したのである。これによって、初期の遠賀川式土器の時期まで石棒が残ることが確実となった。
 三谷遺跡では、多量の突帯文土器と少量の遠賀川式土器のセットに18点にも及ぶ結晶片岩製の石棒が出土した。結晶片岩の産出地である徳島で多量の石棒が出土したことによって、結晶片岩製石棒の生産と流通という課題にとりくむことが可能となったのである。(略)
 私は特に以上に述べた点を重視し、予察的な論考をすでにいくつか発表してきた。そこで、これらの石棒は大阪湾沿岸から徳島にかけての地域に分布の中心があり、盛行する時期は、突帯文土器でも後半の長原式から弥生前期初頭にかけてであることを指摘した。また、三谷遺跡で最も多量の石棒が出土し、その点数が他遺跡を大きく凌駕し、未製品は徳島でのみ出土していることから、生産地としての可能性を指摘してきたのである。(略)資料集成を継続した結果多くの未公表資料を掘り起こすことができた。(略)石棒の総数は46遺跡156点となり、分布範囲は西は岡山・愛媛・高知、東は滋賀・奈良・和歌山と、従来の想定よりもすこし広がることとなったのである。

 Ⅲ 型式学的検討
1 従来の分類基準
(略)
2 結晶片岩製石棒の分類
(略)
3 各型式の類例
(略)
4 各型式の分布とその考察
(略)

 Ⅳ 結晶片岩製石棒の生産と流通
1 未製品からみた製作遺跡の推定
(略)
2 名東遺跡・三谷遺跡における石材の獲得
(略)
3 生産と流通の実態
(略)

 Ⅳ石棒生産時期の検討
 結晶片岩製石棒が、縄文晩期末から弥生前期初頭の短期間に盛行したことはすでに述べてきたとおりである。ここでは、製作遺跡である名東遺跡・三谷遺跡の時期とそのほかの遺跡との併行関係を中心に、もう少し詳細に所属時期について検討してみたい。
1 名東遺跡・三谷遺跡の時期
 名東遺跡・三谷遺跡は、いずれも短期間に営まれた遺跡である。名東遺跡は、2条の突帯を持つ突帯文土器でも終末期の単純遺跡である(勝浦1990)。また、三谷遺跡は同じく2条の突帯文土器を主体としつつも、少量の遠賀川式土器がともなう遺跡であり、下層の貝層をふくんだ自然凹地と上層の包含層では土器に若干の変化が認められる。下層の遠賀川式土器は、段によって口縁部・頸部・胴部を区画した壺、胴部無文の甕というセットをなしている。これに対して上層では、下層にはなかった削り出し突帯を施した壺、胴部上半に少条沈線をめぐらせた甕が伴っている(勝浦・木村1997)。すでにこの時期、西方600mほどの庄遺跡では遠賀川式土器を主体とした集落の形成がはじまっていた。三谷遺跡はこの時期をもって埋没し、同時に突帯文土器の使用・石棒の製作も終わりを告げるのである。その後の、突帯文土器をともなわない少条沈線を施した壺・甕を基本とする弥生前期中葉の土器群、さらには貼り付け突帯をめぐらせた弥生前期末の土器群には石棒は伴わない。
2ほかの遺跡との併行関係
 今回集成した石棒は、包含層や流路から出土したものが多く、一括製の高い遺構から出土したものはそれほど多くはない。確実な類例は、今治市阿方遺跡、大開遺跡、雲井遺跡、口酒井遺跡、亀井遺跡、長原遺跡、田井中遺跡の7遺跡であろう。このうち、阿方遺跡、雲井遺跡、口酒井遺跡、長原遺跡は、突帯文土器でも後半の長原式を主体とし、少量の遠賀川式土器がともなうことがある。これらは、名東遺跡や三谷遺跡の下層と併行するとみてよいだろう。次に、大開遺跡、亀井遺跡では古いタイプの遠賀川式土器とともに出土している。これらは、三谷遺跡の上層と接点を持っていたといえよう。現時点で、名東遺跡・三谷遺跡埋没後の弥生前期中葉・末の土器にともなう確実な類例はない。これ以外の流路・包含層資料、詳細な内容が公表されていない資料にしても、基本的には名東遺跡・三谷遺跡出土土器と接点を持っている。また、名東遺跡・三谷遺跡より古い、突帯文土器の前半に確実にともなう類例は、道後今市遺跡、土井遺跡、下遺跡の3例、しかも小型の下遺跡例を除くと2例にすぎない。以上のことから、名東遺跡・三谷遺跡で石棒製作がおこなわれていた期間と、近畿・瀬戸内地域で結晶片岩製石棒が盛行する時期はほぼ一致するということができよう。

Ⅴ結晶片岩製石棒の分布とその意味
 今回集成した結晶片岩製石棒は46遺跡156点である。西は岡山・愛媛・高知から東は滋賀・奈良・和歌山にいたるまで分布している。しかし、実際に分布の中心となるのは、徳島から大阪湾沿岸および紀伊水道に面した諸地域である。とくに四国東部と近畿地方との強いつながりをうかがうことができよう。徳島と分布が希薄な香川・愛媛・高知といった四国西部との差は非常に大きいが、実はこれには前史があるのである。
 私は昨年、四国地方の石棒を集成する機会を持った。後に判明した分を加えると、四国出土の石棒73点中57点が徳島出土で、香川は3点、愛媛が7点、高知が8点であった。実に、四国出土の石棒の8割近くが徳島に集中する。ここから縄文晩期末から弥生前期初頭の石棒を省いてみよう。徳島では、名東遺跡、三谷遺跡、大柿遺跡の計31がはずれて26点となる。ほかは、香川2点、愛媛5点、高知6点である。それでもなお徳島の石棒が多いのは、晩期以前から、石棒を多用する近畿地方との交流の下地があったからにほかならない。いい換えれば、縄文晩期末から弥生前期初頭の結晶片岩製石棒の分布には、それまでの長い交流史が反映されているのである。(略)
 前章までの検討で、粗製大型石棒がふたたび盛行するのは、縄文晩期でも末から弥生前期初頭の土器編年でいえば2〜3型式に満たない程度の短期間であり、このあいだに名東遺跡・三谷遺跡といった徳島の集団が、自ら石棒を消費するとともに、他地域の需要にも応えて、集中的に石棒生産をおこなったと論じてきた。これをいい換えれば、徳島市の眉山北麓でおこなわれた結晶片岩製石棒を用いた儀礼を、大阪湾および紀伊水道沿岸を中心とした、近畿・瀬戸内地域の集団も採用するような局面が、縄文晩期末から弥生前期初頭にかけての短期間に生じたのであり、これに応える形で石棒生産がおこなわれたということになる。
ここでは、特に縄文晩期末から弥生前期初頭という時代背景に配慮したい。なぜなら、この時期は、多くの文物とともに、新しい儀礼・社会のしくみが伝わる時期に相当するからである。
 徳島は、石棒の儀礼を多用した地域のなかでももっとも西方に位置する。ある時期に新しい文物に直面する事態が生じたに違いない。これらを積極的に導入しようという動きとともに、一方では反動として、いままでの社会秩序を維持しようとする意識がはたらいたとしよう。その結果、伝統的な儀礼をさかんにおこなうにいたったのではないだろうか。そうして、徳島と石棒の儀礼をおこなう上で長い交流史を持っていた大阪湾沿岸から紀伊水道といった地域がこれに呼応した。これが、結晶片岩製石棒の分布という形で明確に現れたと理解するのである。

まとめ −石棒の終焉からみた縄文から弥生−
 西日本における「縄文から弥生」は、突帯文土器・遠賀川式土器の分布圏として、ひとまとめに捉えることができる。しかしながら、石棒の終焉からみた場合、近畿・瀬戸内地域には、中部瀬戸内以西の地域とは異なる、伝統的な石棒の儀礼に固執する状況を確認することができる。その背景には、すくなくとも縄文後期以来の長い地域間交流があったと考えるべきで、これを抜きに弥生時代の成立と展開は説明できないのである。もっとも象徴的なのは、近畿地方最古の環濠集落である大開遺跡をはじめ、東奈良遺跡・亀井遺跡・田井中遺跡・堅田遺跡といった初期の「弥生集落」からもこの石棒が出土しているということである。この事実は、石棒の儀礼をおこなった人々が、「弥生集落」の成立にもかかわったことを暗示しているのではあるまいか。
 以上のように、今回の研究では、長い伝統のなかで石棒の儀礼をおこなってきた人々が、「弥生集落」の成立にもかかわったという結論に達した。したがって、香川・金山産のサヌカイトという実用品の移動をもって、近畿地方における弥生時代の成立を、香川方面からの遠賀川系集団の移動ととらえる見方とは異なる立場となった。今後は、さらに「多角的な視点」から「縄文から弥生」という課題にとりくみたいと考えている。

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