農業の起源をめぐって(中村 豊)
縄文時代に農業がおこなわれていた可能性が指摘されて久しい。これまで多くの状況証拠が積み上げられてきたが、決定的な証拠を欠いてきた。近年めざましく普及したレプリカ法は、これを解決するのに大きな役割をはたしつつある。この研究会のテーマでもある、縄文時代晩期後葉の凸帯文土器期では、イネ・アワ・キビの証拠が着実に蓄積されつつある。最古のイネ圧痕である板屋Ⅲ遺跡が山間部に立地するところや、土器・石器の画期をみる限り晩期前葉まではさかのぼる可能性が高いといえるだろう。
さて、長らく縄文時代は狩猟採集経済であり、弥生時代はイネの生産にもとづく社会のはじまった時代とされてきた。これは資料のなかった時代においては整合的であったのだが、今日においては、調整または修正が必要となってきている。調整の場合は、狩猟採集を中心とする生業に植物の栽培が加わったとみてその影響を限定的にとらえようとする。一方の修正案はこれを積極的に評価し、その実態をあきらかにしようとする立場である。
前者は慎重に資料を扱おうとするので堅実な成果を積み重ねることができる一方で、従来の説を墨守することが実質的な研究目的となり、発掘調査技術や研究法の発展に消極的となる危険性がある。後者はいうまでもなく早合点やミスの危険性がある。
いずれの説においても、灌漑による水田稲作の導入に画期を求める点では一致しているといえる。では当時の灌漑水田稲作はどのように評価できるのであろうか。
灌漑水田稲作の導入によって集住化が進み、個々の集落規模が大きくなることは間違いないであろう。遺跡数も、とくに平野部においては増加に転ずる。この傾向は弥生時代前期中葉以降顕著になり、前期末・中期初頭にピークを迎える。しかし、その後の展開は地域差が大きい。集住化を解消し、小規模化し、河岸段丘に進出するするようなケースもみられる。一様に発展していった像を描くことはできないのである。
灌漑水田稲作の導入は、彼らにとって必然ではなく選択肢である。この前提は不動である。集住化した集落にかつて凸帯文土器を使用し、それにともなう生業を営んでいたものが参画していたことは間違いない。前期中葉以後の遠賀川式土器には凸帯文土器の特徴を吸収したものが多くみられるし、狩猟具や漁撈具、横刃形石器・打製石斧も健在だからである。すなわち灌漑水田稲作経営を軸とする集住化には、確実に狩猟・漁撈・非灌漑農業が複合化されているのである。当時の灌漑は、おもに水源となる旧河道の氾濫原でおこなわれていた。日本列島への伝播に際して、かつて遭遇しなかったような想定外の降水量に遭遇するような地域もみられた。すなわち、水田のみに集団の将来を委ねてしまうのはあまりにもリスクが高いといえるのである。
弥生中期前半には、大規模な洪水による地形環境の変化もあって、灌漑水利の廃絶、集落の小型化や河岸段丘への進出がみられ、とくに横刃形石器(打製石庖丁と名前を変えるが)の復活が顕著である。土器にも縄文色への回帰をみることができるのである。
弥生時代前期の灌漑水田稲作経営を軸とする集落に過大な期待を背負わせるのは再考が必要であり、それば縄文時代晩期の非灌漑農業の正当な評価ともつながりうるであろう。(2014.7.5『中四国地域における縄文時代晩期後葉の歴史像』中四国縄文研究会より)