思い出落語(その1)
今を去る事31年前、もやしみたいな新入生は新入生勧誘の出店めぐりをしていた。その新入生濱野豊くんは、「関関同立」「現役合格」という目標だけを追っかけて受験勉強に励み、見事追加合格。(募集人数に対し欠員が出たため。高校には何点足りなかったか連絡があり、後で聞くと2点足りなかったらしい。)
拾っていただいた立命館大学に恩返しが出来るクラブは無いんかな?と、「学園祭実行事務局」に話を聞きに行くと、けんもほろろ。ボぉーっと歩いてると、提灯のかかった出店に「なんか勘亭流みたいな字」で「落語研究会」とある。「あ!あの字書いてみたい。」
出店での勧誘も最終日の夕方で、法被を着たクラブ員の方が輪になって話している。長髪の女性の方が「お疲れ様でした!」って言い終わったのを見て、勇気を出して(男子高出身なので女性に対する免疫がない。)声をかける。
「このクラブに入ったら、あの字が書けるようになりますか?」
「書けるようになるよ!良かったらオリエンテーション来てね。」
落語がどんなものなのか?見たことも聞いたこともない濱野豊くんが落語研究会に入るきっかけは「なんか勘亭流みたいな字」=「寄席文字」だった。
落語研究会は毎年勧誘でクラブ員を集めており、動機はともかく自ら入部しようとする子は少なかったような。
長髪の女性は当時3回生幹部情報宣伝部長のあかねさん。(サラッサラの黒髪!)
オリエンテーションは、20人以上の新入生が話を聞きに来ていた。オリエンテーションが終わり、京都駅に向かうバスから外を見ると、西大路の北野白梅町の北側あたりで、さっきオリエンテーションで目立ってたちょいポチャの女の子が歩いているのが見えた。この子は落研入るのかな?なんて考えながら自宅に帰った。
この女の子は、クラブ生活の中心になっていく。。。
次のクラブ活動の日時に行ってみると、新入生5名と2回生1名だけになっていた。(オリエンテーションには20人以上居てたのに。)
活動の後、BOX(部室をこう呼んでた。)に連れて行ってもらった。1回生の時のBOXは軽音サークルとの同居だった。
次の日からBOXに入り浸ることになる。この日以降授業に出た記憶がほとんどない。自宅からの通学がおっくうになりスグに下宿(風呂無し・トイレ・水道共同)住まいになった。(母親はこの下宿期間での仕送りを全てメモしていた。。。)
当時、立命館大学落語研究会は、必ず全員が技術(演じること)学術(学ぶこと)情宣(呼込み・観客動員)下座(お囃子)に携わることになっていて、年間3つの新ネタを演じることになっていた。企画される学内寄席には全員出演できた。
新入生は江戸落語「一目上り」上方落語「つる」のどちらかを最初に覚えることになっていた。なかなか頭に入らなくて、口にもつかず、個別のマンツーマン練習も疎かでの全体練習(つまりクラブ全員の前での発表・批評会)に出ることになり、案の定ぼろぼろ。それまでのマンツーマン練習では指摘されなかった「活舌の悪さ」と「俯瞰して見ている誰かの声」に悩まされることになる。
新入生全員が一応の合格をする日の最終で、「芸名大会」が行われる。
会長の司会で、副会長が教室の黒板をチョークで五等分し、一番上に本名が書かれ、上回生が芸名候補を上げていく。
ある程度で揃ったところで、4回生の方が名前を挙げていく。寄席文字を書いていた4回生に名前を付ける権利があった。名付け親は権八さん。
ちょいポチャの女の子岸田尚子さんは、「ぽん太(2代目)」と名付けられた。(初代のぽん太さんは、背が高くて超絶別嬪さんで、目当ての学生でキャパ600人強の学内一番大きいホールが満員になったそう。)
濱野豊くんは「恋々」やな!「屋号は立の家」
(つづく)