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航空・短編小説「前夜の空」

エアラインを題材とした短編小説です。

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「前夜の空」


ただいま緊急降下中です。マスクをつけてください。ベルトを締めてください。

自動で再生されるアナウンスが飛行機の機内に響く。ボーイング737-800型機が急降下に入ってから2分が経過した。機内は自身の声すら聞き取れないほどの強烈な轟音が満たしているが、キャビンの座席に座っている172名の乗客の悲鳴はない。何が起きたのかもわからず、声も発することもできず、一瞬のうちに遭遇した生命の危機に対して、ただ目を見開き顔に恐怖を貼り付けることしか出来ない乗客達は、機首を下げ青黒い海に向かって急速に降下していく飛行機の中でなす術もなく座っていることしかできなかった。

羽田空港を離陸し香港国際空港へ向かっていたジャパン・ウイングス137便が離陸してから2時間51分が経過した時だった。突然、機内の後方から響いた鋭い破裂音。同時に事態は発生した。

機体後方へ向かって、爆発的な勢いで気流が発生した。膨らんでいた風船に穴が空くと勢いよく空気が流れ出てゆくのと同じように、与圧装置によって機内に満されていた空気が、チリやゴミと共に轟音を伴って猛烈な勢いで機体後方から飛行機の外へと流れ出ていった。24℃に設定されていた機内の空気は瞬く間に冷やされ白い霧となり−33度まで低下していった。急変する状況に対して旅客の理解が追い付く間もないまま飛行機は機首を下げ、急降下を開始した。

乗客達は急激な気圧差よって膨張した肺の中の空気が吐き出され、悲鳴を上げるための酸素にありつくこともできず10秒足らずで低酸素状態に陥り意識を喪失していくなか、異常発生と同時にキャビンの天井から自動落下した黄色い酸素マスクを着用できた者だけが意識を保てていた。離陸前には必ず酸素マスクの使用法が説明されるが、この説明を聞いている旅客は全体の数%に過ぎなかった。先に自分の子供にマスクを着けようとして失神した母親や、マスクに手を伸ばしたものの着用に手間取りゴムバンドで頭を固定する前に失神してマスクが外れてしまった旅客もいた。

キャビンの通路の中央付近を歩いていたCA(キャビン・アテンダント / 客室乗務員)の責任者であった主任客室乗務員(チーフパーサー)の藤村一郎は、異変を感じた直後、落下してきた酸素マスクを反射的に着用し通路にしゃがみ込んで通路に面する座席のアームレストを下から抱え込んでいた。本当は空席に座ってシートベルトを着けたかったが、この便はほぼ満席だった。

急減圧、発生。

体を動かしながら無意識にそう断定した。藤村はこのような事態に遭遇するのは初めてであった。しかし五感を通じて感じる耳の痛みや閉塞感、息の苦しさ、肌を刺す寒さ、流れ出る空気が体を叩く感触。マニュアルに書かれてた急減圧発生時に起こりうる現象が実際に発生していることは、思考するまでもなく明確だった。

訓練で何度も繰り返し叩き込まれた急減圧の初期対応に抜かりはなかった。意識を保ったまま酸素マスクの着用に成功することはCAとして当然の成果だった。これができなければ、このさき行うべき重要な業務の一切を実施できない。

空気が漏れた箇所はわからなかったが、おそらく貨物室ではなくキャビンのどこかだろうと思えた。今日はほぼ満席だった。もし窓が破れていたら?その席に座っていた乗客は?極度の緊張が藤村の精神を支配してゆく。緊急降下が完了し与圧装置がなくとも機内の人間が正常に呼吸できるようになる高度に達するまで、まだ3分はかかるだろう。詳しい状況把握はそれからだ。とにかく今は自身の安全を保持しつつ1人でも多くの旅客に酸素マスクを着用させ、この緊急事態を切り抜けなければならない。

藤村は頭を働かせる一方で、飛行機の左側から普段のフライトでは決して聞こえない、機械的な異音が響いていることを察知していた。

もしかして左側の第1エンジン?もし急減圧発生がエンジンの故障によるものだとしたら、それは事態がより深刻化していることを意味する。状況次第では海上への緊急着水をも想定する必要がある。この機はいま、東シナ海のど真ん中を飛んでいるのだ。

ボーイング737はその性能からエンジン1基でも飛行は可能であった。いまの地点ならば那覇か台湾あたりに降りられるだろう。しかし、緊急降下を実施して高度を下げたことで空気抵抗が増加し燃料の消費量は一気に上がる。さらに、もし燃料タンクに破損があったら?機体のコントロール・システムにダメージが及んでいたら?これらの推測は決して悲観に過ぎるものではない。過去に発生した航空事故は、得てして複数の要因が重複することによって起こったことを藤村は知っていた。

藤村は飛行機が降下を続けていることに内心、安堵も覚えていた。緊急降下に入ったということはコックピットにいるパイロット2名のうち、少なくとも1人は行動可能であるということだ。減圧によってパイロット2名が同時にインキャパ(業務遂行不能状態)になることは、考えうる最悪のケースの1つだった。

意識不明者対応。
低酸素症状の旅客対応。
負傷者の対応。
各CAからの状況報告と指示。
機体の破損状況の確認と対応。
緊急着陸、または着水の準備。

藤村は周囲に状況を確認しながら、チーフパーサーとして降下完了後に実施すべき業務の計画を始めていた。現状の困難さを理解するにつれて脳細胞が激しく熱を発しホワイトアウトしてゆくような感覚を制御し、アームレストにしがみつきながら懸命に優先順位や対応手順を思考していく。藤村は自身の他に乗務している3名のCAが行動可能であることを祈った。乗客172名をCA4名で守り抜かなければならない。CAが1名でもインキャパになるだけで、他のCAにかかる業務負担は格段に増える。考えたくはなかったが、そうした状況になった際の対応も妥協なく想定しなければならない。

低酸素症旅客の対応は?
酸素ボトルの搭載数・使用手順・注意事項は?
外傷を負った旅客への処置は?
緊急着水準備の手順は?
各CAの経験値や技量は?
もし動けないCAがいた場合は?

考えを巡らせていた時、不意に機体の落下Gが弱まり、藤村の体が徐々に強く床に押し付けられていった。まもなく目標の高度に達するため、機体が水平飛行へ移るために降下率を抑え始めたのだ。まもなく緊急降下が完了する。機長の許可が下り次第、CAは直ちに保安業務に入る。

やるしかない。最大出力で稼働する脳を少しでも冷静に保とうと、無意識にマスクの中で深く深呼吸した藤村の耳を、新たに作動したけたたましい警報音が叩いた。今度はなんだ?この警報は何を知らせるものだっけ?思考がまとまらない。これは警報?いや違う。これは。



聴き慣れたアラームが耳元で鳴り響いている。

無意識に素早く体を動かしスマートフォンをタップして音を消す。ぼんやりとした視界のなかでゆっくりと時間を確認し、ため息と共にスマートフォンをベッドサイドに置きながら、藤村は自身が飛行機の機内ではなくホテルのベッドの中にいることを思い出していた。無意識に音を消したのは、自身のアラームによって横の部屋で寝ているであろう利用客を起こさないためである。1年の1/3をホテルで過ごす生活の中で自然と身に着いた習慣だった。

鮮明に残る夢の記憶に辟易としながらベッドをもそもそと這い出て、重たい遮光カーテンを開けた。窓から白い光が差し込み、東京の街並みと青い空が、冷たく澄んだ空気によって遠方まで美しく広がっている。

その空の一点に、光を浴びて白く輝きながら上昇している飛行機があった。羽田を離陸した飛行機だろう。地上10階の窓から見る爽快な朝の景観は、普段ならば気分も晴れるものだが、いまの藤村にとっては少々刺激の強いものだった。デスクの上は昨夜遅くまで使っていた充電器が差しっぱなしのタブレットデバイスや乱雑に書き込まれたノート、飲みかけのコーヒーが入ったカップやビスケットのかすで散らかっていた。

しかし、ひどい夢だ。ため息とともに内心で愚痴た藤村だが、仕事の前に質の悪い睡眠をとる時に、よくこういう夢を見た。墜落する夢、仕事に遅刻する夢、なぜか気分の良い内容ではないことがほとんどだった。「飛行機は地に足がついていない感覚が嫌いだ」と父親は言っていたが、こうした夢を見ると共感はできる。飛行機の安全性を信じられず、また何か起きた時になす術がないことに対する不安を感じる人は以前として多い。JAL123便事故の衝撃を強く受けた世代は特に顕著だと藤村は感じていた。

このような夢は、自身の小心ではなくCAとしての熱心なプロ意識が見させるのだ。努めてそう思い込む努力をしながら、冷蔵庫で冷やしておいたコーヒーとパンで朝食を済ませ、それから熱いシャワーを浴びた。

スマートフォンでブルーハーツの曲を流しながら髭を剃り、髪型を整え、革靴を磨く。休日は決してしないこのルーティンが気持ちを切り替えてゆく。流す曲は日によって変わるが、今日は現状に対して開き直って向かい合えるものを求めた。藤村は慣れた動きで荷物をまとめ部屋を出る準備を始める。楽しい旅行で泊まったホテルを去る時のような名残り惜しさは無い。藤村にとってはもはや日常となっている、仕事のための宿泊だった。 これから仕事だ。しかしフライトではなかった。

長い1日が始まる。

藤村は改めて、夢の残滓を頭でかみしめていた。CAとして飛び続けた10年以上の経験が蓄積された脳が創造した夢は、あまりに現実的なものだった。そして藤村は、夢の中でも責務を果たしていた。旅客の身を守るために。これは決して賛美されるべきものでも、悲壮美で語るべきものではない。それが「仕事」なのだ。

そして今日は、自分が明日からもCAとして空を飛ぶために、利用者が命を託す飛行機に乗務する保安要員たるために国家から課せられた義務を果たす日なのだ。コーヒーを飲み終えた藤村は、鏡で身なりをチェックし、普段と同じようにスーツケースを引いて部屋を出て、仕事へと向かう。

「定期総合訓練」の初日は、筆記審査から始まる。

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