正解はないけど最適解はある
「サッカーに正解はない」という言葉をよく聞く。
確かにそう。
サッカーは競技上、ボールを持った個人には
「自由」が与えられている。
しかし、チームとして勝利に向かって動くのであるなら、一人一人が好き勝手自由にプレーしていては思うような結果は得られにくい。
相手も邪魔をしてくるわけで。
そんな中、以前Xでこんなツイートを目にした。
サッカーにおける「正解は無い」という言葉は
どちらかというとポジティブな意味で使われているが、この言葉によって選手や指導者が「考えることを放棄」していることに繋がっていないかと、僕も感じる時がある。
サッカー議論をしていると、
AもBもCも深く議論したあげく最終的に
「でも正解はないからね」で締め括られることもよくある。
サッカーは個人として、あらゆる状況を自分で打破するために技術や戦術、またはフィジカル能力が必要だ。
技術やフィジカルの資本が「体」だとすると、
戦術的な能力の資本は「頭」だ。
この「頭」こそが全ての人間に与えられた
平等な能力だと、僕は思っている。
なぜならフィジカル能力でハーランドのように
なるのは難しいし、今から学校で1番足の速い子に勝つことすらも難しい。
技術は磨けば伸ばすことは可能だが、
元々生まれ持っている手足の長い選手や
足の速い選手が身につけた技術には敵わない。
しかし、頭の部分は違う。
皆平等で、むしろ学んで覚えていくことが可能だ。
もちろん、いくら頭の部分が優れていても技術が備わっていないと実戦で使うことはできないが、
頭を育てずに技術だけを育てても将来その技術は少しずつ使えなくなる。
使えなくなるというか、
相手に〝使わせてもらえなくなる〟が正しい。
これだけは自分の経験上断言できる。
本当のトップレベルは皆、
高いレベルの頭(個人戦術能力)が備わっている。
そのような選手達は技術と戦術(個人)のバランスがいい。どちらも必要で、どちらかだけではいずれ通用しなくなるということが理解された中で小学年代からトレーニングを積んできたのだろう。
その点からすると、日本は全体的に技術を特化させることには優れているかもしれないが、頭を特化させることには世界から遅れを取っているように感じる。
それは文化的なものやサッカーの捉え方が違うこともそうだし、指導者自身の思考にも深く関係していると推察する。
例えば【焼き魚を食べるとき】
これは過去のnoteにも書いたことがある。
焼き魚をどのように食べるのか。
初めて焼き魚を食べる子どもの前に
箸・スプーン・フォークが並べられている状況。
もしこの状況なら「どの道具を使って」焼き魚を食べるか、初めて焼き魚を食べる子どもに大人が「答え」を教えるだろう。
そこをいちいち子どもに考えさせることはない。
この状況での最適解は「箸」である。
「正解はないよね」で終わるわけがない。
もちろんフォークやスプーンでも焼き魚は食べることができる。ただ、食べにくいし魚をつまんで口に運ぶまでの効率が悪すぎる。
箸で食べることを教えてもらった子どもは、そこから初めて「(箸で)どのように食べるか」を自分の頭で考え、工夫していく。
しかし現実では焼き魚を食べるためには「箸を使うと上手く食べられる」ということすら教えてもらえないという現状が、サッカー界の現場ではよくある。
それなのに「こぼさず食べろ」「早く食べろ」と怒られる。
いや、使っているものスプーンとフォークなんですけど…みたいな構図はよくある。
だから日本サッカーの「頭」の部分の成長は世界に比べてやや遅いのかもしれない。
上達のための一手間が無駄に多い。
子どもに考えさせすぎる弊害だ。
もうそこは教えてあげようよ、という部分まで
「どうする?」「考えてごらん?」と
大人が子どもに質問している気がする。
もしくは、「正解はないよね」とぼかす。
最悪なパターンは、そんなやり取りを繰り返しているうちに、結局焼き魚を食べるには「箸を使う」ことが最も効率よく食べられることにすら気づけず、大人になってしまう子どももいること。
つまり、魚の食べ方もサッカーのプレーも、
正解はないけど必ず〝最適解〟はある。
サッカーは自由なスポーツだからこそ、
自分はそこを大切にしている。
「正解はないよね!」「どのプレーもOKだ!」
だと、センスがあって物分かりがいい子だけは
勝手に上手くなるかもしれないけど、それ以外の子は何もわからず育ってしまう可能性だってある。
そんなことを僕はずっと言い続けているんだけど、どうしてもそれが信じられない人たちには、大人が子どもに答えを教えることに対して「選手の自主性が奪われる」とか「今だけ勝つ選手になる」という声を耳にする。
そうかな?本当にそうなの?
逆に聞きたいけど、焼き魚を食べる1番いい選択肢や方法を教えているだけなのに自主性が奪われたりすぐ上手に食べられるようになるの?
方法を教えてからは、子どもの慣性を大事にすべきだと思うし、そこから上手くなっていくのはその子自身の努力とか工夫の仕方などの影響も大きい。
でも、方法も教えられないで育つ子は、結局大人になっても「本当に箸でいいのかな?」と不安になったり、未だに迷ってスプーンを使ってしまったり…
結局頭の中がカオスになって困ってしまう。
成長が進み、気づいた時には周りのみんなが箸を使って綺麗に焼き魚を食べていて、そんな奴らに陰口を言われて笑われる。
そうなってからではあきらかに遅い。
なので、方法や最適解を大人が教えることは何も悪いことではなく、むしろその子を助けるアドバイスになると、僕は思う。
だけどたまに、焼き魚をフォークでめちゃくちゃ綺麗に食べる奴とかもいるんだよね。笑
それどうやってんの!?みたいな…。
それはそれで良いんだけど、それは特殊で低確率だということを忘れちゃいけないし、基本は箸で食べられるようになってからフォークで食べる特技も身につけると良いかもしれない。
話を完全にサッカーに戻すけど、どんなに体を鍛えても、どんなにボール扱いを上手くしたとしても、それを操る「頭」を小さい頃から育てていないと、サッカー選手としてフットボールをプレーするには不自由になってくる。
そしてその「頭」の部分というのは、選手が自分で考えることはもちろん、「指導者が方法を教える」ことでも研ぎ澄まされていく。
「こういう時はこうした方がいいよ」
「この状況ではこっちの方がうまくいくよ」
たくさん教えていい。
何度も言うけど教えられずに成長してしまって
あとから苦労するのは選手自身。
そんなことを日々身を持って学んでいるからこそ、育成年代を指導する際はその部分を意識的に大切にしている。
サッカーに正解はないけど、最適解はある。
その最適解をたくさん教えられる指導者ほど、
選手の能力を伸ばして才能を引き出すことができると、僕は信じている。
最後まで読んでいただきありがとうございました。