「理不尽を糧に成長」とか、絶対ちがう
修羅場・理不尽を乗り切った人は、大抵の出来事には耐えられる。しかし「人間の成長には修羅場経験が必要」という考えは根本から間違っている。「修羅場がその人を強くする」わけではなく「元々強い人が修羅場に遭遇して乗り切った」と言うのが、因果としては正しい。
上記のnoteはぼくの新卒同期が書いたものだ。詳細は読んで欲しいのだが、事実だけ雑にまとめると「外資系日本法人が倒産→社長が事後処理を新卒3年目に押し付けて自分だけ転職→全国の顧客に謝罪行脚して罵倒され続ける」という流れだ。Twitterでの反応を見てると「こんなにひどい経験はしたことない・・・」という声が多い。
同期ながら知らないことも多くて、読んで何度か絶句した。率直な感想は「これ自分が経験したらメンタルやられてる」だ。この状況を同期はなぜ耐えられたんだろう。彼が再起不能のダメージを負うことなく、その後のキャリアを発展させていけてるのは奇跡に近い。理不尽に修羅場を押し付けられた新卒3年目の若者が、偶然メンタル耐久力の高い人間だっただけ。並の耐久力の人間だったら、メンタルやられて一定期間働けなくなってるはず。
3年一緒に働いて、その後も友人としての付き合いを続けてきて、一つ言い切れることがある。「この修羅場体験が彼を成長させた」ということは絶対にない。ただただ、辛く苦しく孤独な時間を過ごしただけだ。noteでは前向きな振り返りをしているが、10年弱の間友人にも元同僚にも話せなかった。それくらい辛くて重い出来事だったのだ。この修羅場を彼が乗り切れたのはそれ以前の積み重ねのおかげだし、その後の活躍は彼の努力と周りの人達の助けのおかげ。修羅場経験など、その後一銭の価値にもなってない。その証拠に直後の転職は、3年社会人経験があるのに第二新卒扱いだ。
こういう酷い経験は、本人としては前向きに解釈しないとやってられない。ある意味、自己防衛反応だ。修羅場など経験せずに済むなら絶対にそっちの方が良いし、修羅場無しで成長する方法などいくらでもある。確かにネタ話としては面白いし、ドラマチックだ。でも、その裏で当事者は相当なダメージを食らう。回復にも相応な時間・労力は掛かる。回復できたらまだいい方で、再起不能になるケースもある。
理不尽を美化しなくていい
人格を否定され、家族の前で馬鹿にされ、プレーが上手く出来ないからとゴールポストにヘディングをさせられた。
あんな経験があったから僕はプロ選手になれたのだろうか。
理不尽を乗り越えたから強くなれたのだろうか。
そもそも理不尽とは一体何なのか。
道理に合わない事を経験させたり、恥ずかしい思いをさせないと人は強く逞しくなれないというのだろうか。
(中略)
高校時代にサッカー選手としてその後の人生を左右する重要な要素を与えてもらったのは間違いないが、だからといって上に書き記したような出来事があったからこそプロになれたなんて思った事はない。
戸田さんのブログでぼくが勇気付けられたのは「自分が受けた理不尽な体験を美化しなくていい」ということ。
ぼく自身も能力・役割・報酬以上の無茶な責任を背負わされたことはあるが、「あの辛い経験があったから自分は成長できた」と無理に自分を納得させることもあった。
しかし、おかしいものはおかしいし、理不尽のおかげで人が成長するなど絶対ない。理不尽を受けたら尊厳を傷つけられて、ただただダメージを受けるだけ。良いことは一つもない。人が成長するときは、日々自分の力量よりも少し難しい課題を見つけて一個一個取り組んでいる時であって、理不尽な目に遭っている時ではないし、力量と比して無茶な仕事をやっている時ではない。
何気なく依頼された仕事で、人はかんたんに壊れる
起業家・経営者も修羅場・理不尽を経験することは多い、と聞いている(自分では起業も経営もしてないからあくまで伝聞)。彼ら・彼女らに関しては自分の意志で修羅場に突っ込んでいってるし、自らの意志であれば現状の能力対比でどんな無茶をしても、まあ良いのではと思ってる。本当に自発的な意志に基づくなら、周りからはどんな無茶に見えてもそれは「チャレンジ」と解釈していいだろう。それに何より、高い報酬をもらってる or 成功したら高い報酬が返ってくるのならば、取る責任の重さに対して報酬は見合っている。
一方で、他者に強いる無茶は理不尽である。しかし、意図的に無茶な仕事の依頼をする意地悪な人間はそんなに多くないと思う。始末が悪いのは依頼側は余裕のタスクだと思って頼んで、実行する側が蓋を開けてみるとめちゃくちゃきつい仕事になるというケース。依頼した側に無茶な仕事を頼んだ自覚がないので、実行する側が潰れても「あいつは弱いやつだ」で済まされてしまう。自分が見聞きした中だと、仕事の依頼者には悪気がなかったけど、実行者が潰れてしまったケースの方が多い。
(一昔前のSIerとかだとITを知らないクライアントが無邪気に出した依頼を断れずに、開発者が全員終電帰りになるとか頻繁に起こってたのでは。)
一般論として、個の戦闘力が強い人がマネジメントに昇格する。個の戦闘力が強い人は「これくらい出来て当たり前」ラインが相当高い。「普通にこんくらい出来るだろ」と渡した仕事が、受けた側にとっては厳しすぎてどこから手を付けていいか分からない、と言うことも起こる。
ぼくは20代の頃に無茶を受けた側を何回か経験したが、とても苦しい。頼んだ側は「出来て当然だろ」って顔をしてるから、相談しにくいし、出来ないとも言いにくい。時間だけが過ぎて仕事は進んでないから、強い口調で詰問される。ますますできないとは言えない。そしてまた時間だけが過ぎ、詰められる。こういう状況に置かれると、人間は3ヶ月くらいでメンタルを病む。自分より立場の弱い人間を壊すのは、想像よりも遥かにかんたんだ。
今思えば「できません」なり「めちゃ時間掛かるので他のタスク全部捨てていいですか?」なり言えば良かった。当時は立場の弱い若造だと自己認知していたため、「使えないやつだと思われて干されたらどうしよう」という不安が勝ち、言えなかった。ただ、それでも自己防衛のために無茶な依頼は断るべきだったと、過去を振り返っても思う。
自分と同じ能力・気持ち・経験を、相手に求めない
今はぼくもマネージャーになったので、一つだけ己にルールを課している。自分と同じ能力・気持ち・経験を相手に求めない、と言うことだ。文章にすると当たり前過ぎるほど当たり前。しかし、世の中には無意識で自分と同じ能力・振る舞いを相手に求めてる人は多い。空気のようにそこかしこにあるバイアスなので、意識的に認知しないと気付きもしない。日本の横並び教育の影響なのか、そもそも人間の認知構造がそうなのかは分からないが、無意識で自分と同じことを相手に求める人は驚くほど多い。自分も含めてだが。
経営者が従業員に経営視点を求めるのも、上司が部下に自分と同レベルの能力を求めるのも、自分と同じ情熱や能力を相手に押し付けているだけ。しかも、無意識でやってるので要求が言語化されてない。言語化されてない要求に応えるには常に顔色を窺うしかない。顔色を窺い始めると、人間の自発性は消える。
30代後半以上の世代が受けてきたひどい仕打ちを、下の世代に経験させるつもりはない。ぼくは同僚や友人が成長していく姿を見るのは好きだし刺激を受ける。逆にダメージを受けている様子を見ると、心が痛む。
理不尽・修羅場を乗り切った経験は自分でも希少だとは思うが、他人に与えたいとは一ミリも思わない。もし今後「うちの若手には修羅場経験が足りない」とかいう言葉を聞く機会があったら、その発言者は「人がどういうプロセスで成長するか」を自分の頭で真剣に考えていないと解釈していい。先輩から受けた仕打ちをそのまま後輩に繰り返しているだけなら、その行為には知性も理性もない。
繰り返しになるが、人間の成長に理不尽とか修羅場は必要ない。
自発的な意志に基づいて、自分の力量よりも少し難しい課題を見つけ、日々一つ一つ取り組む。そのプロセスを通して、人は成長する。ぼくはそう考えている。
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