埼玉の虐待禁止条例改正騒動を見て思ったこと
埼玉県虐待禁止条例の改正案の提出と撤回は大きなニュースになった。改正案の内容がどれだけ現在の子育て環境を無視した現実性に乏しいものであるかは既に語り尽くされているからここでは書かない。ただ、この一連の騒動があぶり出した現在の日本の政治の状況とその問題点については少しだけ書く価値があるように思うので、思ったことを幾つかつらつらと書いてみようと思う。
誰が条例を改正しようとしたか
私がこの問題を報道等で見聞きしてまず思ったのは「子育ての現場を知らない保守派の高齢議員あたりが変なことを言い出したのだろうか」というものだった。ネット上での反応には似たようなものも多かったと思う。
しかし、実際にはそうではなかった。今回の改正案提出を主導した自民党の議団団長の田村琢実県議は1971年生まれの51歳、議会での質疑応答に立っている小久保憲一県議(県議会副議長)は1974年生まれの49歳である。自民党の県議団のウェブサイトを見る限りでは比較的若手のようだし、昨今の婚姻年齢の上昇にも鑑みれば子育て世代のボリュームゾーンから離れているわけではない。現に小久保県議のウェブサイトには2歳の娘さんがいると書かれている。
つまり、この条例改正は、本来ならば子育て世代に最も近いはずの議員が言い出しており、それだけに問題の根深さを表しているのである。
改正の目的と改正の内容
埼玉県議団のウェブサイトでは今回の条例改正案の撤回についての声明が公開されている。この声明の中では、条例改正案を提出した意図について以下の説明がされている(余談だが、この声明はPDFではなく画像として文書をアップロードするという非常にイケていない対応がされており個人的には印象が悪い)。
つまり、①「子供の安全を守る」という基本理念の下で、②日本で一般的に行われている子供を放置する子育てオペレーションを再考させるために議案を提出した、ということを言いたいようである。
この声明は議案撤回後のものなので若干の言い訳臭さはあるのだが、撤回前の議会での説明に関する報道等を見る限りは①・②に近いことが言及されているので、これがこの条例改正の目的ではあったのだろう。
日本では子供だけでの登下校や留守番は比較的一般に行われている。治安状況等を見れば個人的にはそれが大きな問題とは思えないが、それを再考して諸外国のような社会にすべきであるという意見は(賛否はともかくとして)一つの考え方ではあるのかもしれない。
では条例改正の中身はどうだったか。条例改正案のうち最大の議論となった児童の放置禁止の箇所は以下のような規定ぶりとなっている。
要は、小学校3年生までの児童の放置(児童だけでの外出なども含まれる)は禁止、小学校6年生までの児童の放置(同上)は避ける、という内容である。「子供を放置する子育てオペレーションを再考させる」という、賛否が割れる上に大して重要でもない目的のために、いきなり「放置」を一切禁止するという極端かつ影響甚大な手段に出たわけで、そりゃ猛反発も招くだろうという内容である。
なぜ提出前に問題と思わなかったか
普通ならこのような極端な内容の条例改正案を提出しようとしても誰かが止める。ところが今回は誰も問題と思わず(または、問題だとは思ったが強く止めようとせず)、条例改正案が提出されてしまった。これが今回の問題の核心だろう。
ここからは多分に推測が入るが、もし仮に自民党県議団の中にこの条例改正案で最も大きな影響を受ける立場の人物、つまり、シングルファザー・シングルマザーや夫婦フルタイム勤務の当事者が含まれていれば、さすがにこの条例改正案には強く反対しただろう。そこまでいかずとも、近所に両親もいなければ託児サービス等も利用できない状況にある子育て家庭の人間であればこのような条例改正を積極的に言い出したりはしないだろう。逆に言えば、自民党県議団の構成員は条例改正案の影響を受けない立場、具体的には、子育てを離れて久しい世代の議員と、実家や義実家の強力な支援を受けながら子育てをしている(かつ、自分自身は子育てや家事にあまり関わっていない)議員ばかりで構成されているのだろう。なお、自民党県議団のウェブサイトを見る限り、60名近くいる自民党所属の県議のうち女性議員は3名で、何れも50歳前後かそれより高齢である。
こう書くと、まるで私が「子育てに関わらない男性ばかりで構成されていて均質性の高い自民党県議団がクソだ」と言いたいかのように思われるかもしれないが、そうではない。実際には問題の根はさらに深い。
なぜならば、仮に自民党県議団の構成員の大半が子育てとの接点が薄い男性議員ばかりであったとしても(それだけでもかなり大きな問題だが)、彼らの周囲の家庭がこの条例改正によって甚大な影響を被ることを認識していれば、条例改正案の中身はもう少し穏当なものになったはずだからだ。つまり、自民党の県議は子育ての当事者意識がないだけでなく、彼らの目にはシングル家庭もワンオペ育児もフルタイム共働き家庭も見えていないということだ。
これは2つのことを意味する。1つめは、(上記の通り今回の条例改正活動の中心にいた)子育て世代の議員ですら他の子育て世代の現状が見えていなかったということだ。今回の騒動を受けてさいたま市PTA協議会は反対の署名運動を行い、意見書も提出した。念のために指摘するがPTA活動に積極的に関与するような保護者は環境的・時間的に余裕があるはずなので、比較的条例改正の影響を受けにくい層である。それでもPTAが条例改正に反対したのは、そのような層にとっても条例改正が非現実的であり子育て環境を益々悪化させることが自明だったからであり、また条例改正によって著しい影響を受ける家庭の存在もまた明らかだったからだ。
つまり、「放置」を禁止することの非現実性は保護者の大多数にとって明白だった。しかし、子育て世代の議員は、周囲の保護者の共通認識を共有できていなかったわけである。子の学校行事なりで他の家庭を見れば今の日本の子育て家庭の平均値は分かりそうなものだが、実際には子育て世代の県議たちの意識は一般の子育て家庭とは全く乖離していたと言わざるを得ない。
そしてもう1つは、県議たちの支援者もこの県議たちと同じような環境にいたということだ。県議たち(子育て世代でない者も含む)が普段見ている支援者なり有権者なりが条例改正の影響を受けやすい層であれば、このような条例改正案は作成されなかったはずだ。しかし、県議たちの周囲にいた子育て世代は(恐らく彼らと比較的環境が似通った)実家などの強力な支援の下で子育てをする家庭ばかりだったのではないか。
この辺りは想像で書いている部分も多いが、しかし、今や選挙で積極的に自民党の支援に参加する人々と言えば、青年会議所・商工会議所といった、地元に残って(=実家近くで)自営業や中小企業を経営する階層であることは常識である。これは現在の日本社会の平均層からは大きく外れており、子育て環境の問題点については平均を大きく下回る意識しか持ち得ない環境にいるのだが、普段からこのような相手とばかり会っている自民党の政治家は一種のエコーチェンバーにいるようなものでそのことを自覚できない環境にいるのではないか。現在の日本の子育て環境の問題点を真っ向から認識しているであろう転勤族やシングル家庭は政治に関わらないし、政治の側から彼らの要望を吸い上げる動きもない。夫婦共に親元を離れてフルタイムの非正規就業をしている世帯の存在など県議たちの意識にはほぼ留まらないのではないかと想像する。
もちろん、自民党であれ野党であれ、政治家はその立場によって異なる集団の利益を代表することになるから、上記のエコーチェンバー問題を一切回避することは難しい。しかし、現在の自民党の政治家は、自分たちが子育てに関する問題点の吸い上げの面では劣後する環境にいることを認識できておらず、したがって子育て環境の問題点を最も認識しているはずの層から意見を募る意識もないのではないだろうか。
とどのつまり、今回の自民党県議団は、多様性に著しく欠ける集団だったために条例改正案の問題点に自ら気が付くこともできなかったし、周囲の多様な意見を吸い上げて政策を練り上げる機能を欠いていたために極端な内容の条例改正案と共に突っ走ってしまったということなのではないかと思う。ここ数年間の自民党政権が提示してきた子育てに関するトンチンカンな施策の数々を見れば、この推測は大きく外れてはいないと思う。
より身もふたもない話
と、このように長文を書いてきたわけだが、今回の騒動はもっと身もふたもない説明もできる。それは、端的に言えば「思慮が浅く能力のない人々が愚かなことをした」というものである。
改正案を撤回したときの朝令暮改ぶりといい、何を言いたいのかよく分からない「声明」の文章といい、自民党埼玉県議団のX(旧ツイッター)のタイムラインを追うと散見される「大丈夫か」と言いたくなる投稿といい、単に議団のメンバーの能力が劣っていただけであるという要素があることは否定できない。そして、残念ながら、この身もふたもない話の方が騒動の原因としては大きな部分を占めているのかもしれない。
ただ、そのような短絡的な話に飛びつくのではなく、今回の騒動は日本の政治の構造的な問題によって引き起こされた(したがって構造を正せば防ぐことができる)と考える方が、多少は将来への希望があるように思う。