背中がかゆい話
こんばんは。僕です。前回が重い内容だったので、今回はどうでもよい話題にしようと思います。
いま、猛烈に背中がかゆいです。ちょうど、肩甲骨の内側の、体のかたい人だと手が届くか届かないかの、きわどいあたり。
電車に乗っているため、大胆に腕を伸ばしてエイヤッと掻いてやることができず、ガマンを強いられています。
思えば、体がかゆくなるとすれば、どこ? と問われれば、だいたい背中だったような気がして。
たぶん、頭がかゆいとか、腕がかゆいとか、股間がかゆいとか、そういうシチュエーションは多々あるはずで、それでも背中と思ってしまうのは、なんでだろうと考えると、それはきっと、背中がかゆい時は、いまみたいに掻きたくても掻けない困難なシチュエーションが多いぶん、印象にのこりやすいということなのではないのかなと、そう想像するわけであります。腕や頭のかゆみなど瞬殺であります。
緊張と弛緩。
苦痛と快楽。
拘束と解放。
その落差が大きい事象は、えてして印象にのこりやすい。それは「背中がかゆい」という、どうでもよいようなトピックでも当てはまる。
そう思うと、人間の思考というのは、なんとも現金なやつというか、わかりやすいものだなあと、ひとり、電車のなかでそう考えるわけであります。
ですので、きっと、毎日
「今日が人類最後の日だ」
と思って生きると、一日なにも起こらなかったことについても、大変にドラマチックに感じられ、感動の多い毎日になるのではと、そう思います。
ああ、今日がなにもない日でよかった。
どうでもいい話、おわり。