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ドキュメンタリー取材の中で

現在、児童養護経験当事者としてNHKの方より取材撮影を受けている。なぜ僕なのかと言えば、同カテゴリー内で相対的に言語化能力が高そうな事、文学に精通している事、含みがあるように聞こえる言葉の使い方などがコンテンツとして分かりやすいからと解釈した。職員さんは熱意や優しさのある方で当人にしてみれば全ての要因を含めた僕という人間を魅力に感じたと言ってくれると予想されるのだが、それであれば選ばれなかった人が魅力的じゃないのかと言う分断が生まれかねないので、光栄な事ではあったのだがあえてドライに解釈する事にするし皆にそうして頂きたい。「あなたを知って欲しい、伝えたいと思いました。」と仰って頂き、この取材を受けるにあたり断る理由も積極的に参画する理由も特にない。ただ流れに身を任せて直観的にお引き受けしたまでだ。今のところ僕が寺山の言葉に救われたように僕の存在に救われる人がいるかもしれないという意味付けを持って行動を肯定している。
昨日僕の家にディレクターさんとカメラマンさんが撮影にやってきた。それまでの雰囲気は緩い感じだったがいざ始めようとすると雰囲気や御二方の目つきが柔らかくも鋭く変わりどんよりとした空気感を持って撮影は始まった。生い立ちや考えなどを四時間近くかなりディープに質問された。「あの時の記憶があるのはどうしてだと思いますか?」「その時はなぜそうしたのですか?」「このことについてはどう思いますか?」と言う感じに、難しい内容の質問が多かった。どんよりした重い雰囲気の中で重い過去を話すとなると自然と感情も重くなるもので、あの時取材で話した事があの空間によって作られた感情の偏りが無いとは言いきれないなと言う心配を持っている。もしくは行動の理由について聞かれるという事自体、過去の行動に一貫性や強い意志があった事を求められているような気持ちにもなり、それに応える責任感に駆られないように「○○だったんだと思います」と言うように自分事を他人事として話す時間が多くなった事はご容赦頂きたい点だ。
僕という人間は極めて直観的に生きているから、意味付けに置いてしか過去を語れないような気がする。しかし行動を意志で説明出来るような人達は一体どれほどいるのだろうという事は議論されても良いような気はする。僕としては自分を肯定することも含めて、何となくゆらゆら生きるという事は意志を持って社会貢献し続ける人に比するものでもなく尊重されるべき生き方だろうと思う。

昔ファッションデザイナーになりたい理由が「同じような経験者に、ファッションによって自身を好きになってもらいたいし頑張る自分を見せて勇気づけたい。」だった。今は「同じ児童養護施設出身者でも僕は救う側であなた達は救われる側だよ」というような児童養護施設出身カテゴリーにおける差別化によって安心を得たかっただけのように思う。ディレクターにこのことを話すと「それは差別化のようで児童養護施設というカテゴリーを強調しているように思う。」と指摘を受けるがそれは正解だが不適当だ。例えば「男は女に奢るものだ」というようなカテゴリーに押し付けられる偏見から逃れたいのであって男というカテゴリーから逃れたいのでは無いからだ。児童養護施設出身者でもあいつは違うという承認を得たかったんだろう。しかし同じ屋根の下暮らした人らに対して不躾な態度だと思う。不躾だったものが不躾な態度を取るのは当たり前だと思わなくも無いがまあ綺麗に見える汚い夢だったと思う。これはあくまで自分自身に思うのであって他人を救おうとし自分が救われたいだけの人を全て同じようには思わない事は言っておく。
ファッションデザイナーの夢は一旦保留になり何を血迷ったか浅草の人力車に行き着いた僕は、自分でも予想外だった程に仕事を楽しみ苦しみ充実している。家での撮影が終わり、後は人力車で働く姿の撮影が終われば一旦全ての撮影は終了となるはず。12月上旬に放送を目指しているらしい。詳細はまた後日。

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