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硝子片

 彼氏と喧嘩をして、私は自宅に帰ると枕を壁に投げつけてわんわん泣いた。そのあとに冷蔵庫から2リットル弱のコストコのアイスを取り出すと、抱えるように好きなだけ食べた。間接照明を少し明るめに、お酒を少し飲んで、大好きな漫画をパラパラとめくる。そしてお風呂に入って香を焚いて音楽を薄く流してベッドに入ると、落ち着いたと思ったはずの腹立ちがまたふつふつと煮え立ち始める。このまま恋人と顔を合わせても、私は機嫌の悪い態度をとって、きっとギクシャクしてしまうだろう。彼とは別れたくないし、この喧嘩だって本当はどうでも良いことなのだけれど、感情がコントロールできなくて、きっと彼を責めたり、また蒸し返して二人の関係を悪くさせてしまうのだろうと思うと不安になった。

 感情のうるさい夜は寝付くのに時間が必要で、暑くなってきて少し湿気を感じるような今夜は殊に煩わしく、布団の肌触りを楽しむこともできず輾転反側して意識が薄くなるのをただ待つことしかできない。そうだ明日は薬屋に行こう。早く朝が来れば良いのに。そしたら薬屋に行って、綺麗サッパリと。

 翌朝、床に落ちていた服を適当に着て、自転車に乗って薬屋に向かう。昔から地元にある店で、薬屋と言っても昔から雑貨なども取り扱っているようなやつである。それが今ではフランチャイズのドラッグストアになっている。小さい頃、親に連れられて来た頃の雑然とした埃っぽい店内の記憶は朧気にあるが、私はこの清潔で整理された無個性な店内の方がもはや馴染み深かった。

 一見して何の変哲もないドラッグストア、でもこの店には昔から綿々と受け継がれている秘密がある。この地域に住んでいる人なら誰もが知っているそれは、この店でしか買えない非合法の薬品、どんな病気や症状でも覿面に効くという不思議な薬である。それは地元の人々の重宝するところでもあるし、どこからか噂を聞きつけて藁にも縋る思いで戸を叩くものも在るという。

 店に入ると私はニベアの青缶とジャワティー、そしてヴィックスを持ってレジに向かう。別にこんなものが欲しいわけではない、これはそういう約束事である、この組み合わせを持っていく事自体が暗号になっている、そしてこう言うのだ。

「嘘は薬か、誠は毒か、相まって世は悠久に健やかなるを得るなり」

 創業以来代々伝わる合言葉、それに答えて店員はこう言う。

「嘘と薬、どちらをご所望ですか」
そして私は「嘘をお願いします」と答える。

 嘘と薬、二種類のサービスがある。一つは薬、この薬屋のオリジナルの調合による様々な非合法の薬品。もちろんこれは麻薬というような快楽を味わうためのものではなく、れっきとした病や痛みの為の薬のことだ。健康、それこそがこの店の掲げる理想である。そして嘘、これが私の今日の来店の目的だ。

 この店の薬はえらく特殊な材料及び方法で調薬する。その材料とは、人の記憶を使って一個の丸薬を拵えるという、素人の私から見るといっそ魔術的なものであり、嘘とはその材料の提供を意味する。即ち、嘘を所望するものは、自身の記憶をこの薬屋の材料として提供したい、と名乗り出ていることになる。

 記憶を提供するメリットとは忘却にある。つまり薬屋はどういう技術か、人の記憶を抜き取る術を持っているのである。嘘というサービスは、記憶を抜き取ってもらい、おまけで好きなアイスを一つ選べるというもので、人は多かれ少なかれ、どうしても忘れたい記憶というものがあり、例えば長年自分を蝕む恥の記憶であるとか、例えば余りのショックを受けた為に直ちに遺却せしめる必要がある出来事など、挙げればキリがないだろう。それを忘れることができるという非常に珍しく画期的なサービスもまた、この薬屋の売りでもあるのだ。

 そして私はこのサービスの常連であり、今はもう思い出せないけれど、恐らく私のことだから、幼い頃の嫌な思い出や、会社での腹の立つ出来事、彼氏への不満の募りなどを今まで提供してきたのだったと思う。

「千條さん、いつもご提供ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ本当お世話になってます。私が悩みなく健やかに過ごせているのも『霏々剌々』さんのおかげですよ」
「ありがとうございます。旧店名を聞くと祖父の趣味が知れますね、今ではただのマツモトキヨシですよ」

 嘘のサービスの為に設えた小部屋へ店員に案内されて、何で作られたか判然としない特殊な生地の包帯を頭部に巻かれる。そして忘れたい記憶に集中しながら暫くの間待つのだ。すると汗もかいていないのにその包帯が徐々に湿り気を帯びて、しまいには何か液体でひたひたの状態になる。店員はそれを丁寧に解いていき、その湿った包帯を絞って液体をビーカーに入れる。これで終わりだ。私はもう、何を忘れたのかも思い出せない。

「はい、お疲れさまです、終わりました。あ、アイスはハーゲンダッツ以外のものでしたら自由に選べますので、お好きなものを一つ持って帰ってくださいね。今日は暑いですし、帰り道に食べるのも美味しいと思いますよ」

 確か何かにイライラしていたと思うのだけれど、今はもうそんな感情の跡形もなくただスッキリとした気分で軽快に自転車を漕いでいる。緑の木々にきれいに咲き誇る花、行き交う人々の夏を感じさせる仕草、雨上がりの翌日のじめじめした晴れの匂い、自分の感情で忙しかった行きの道のりでは気付かなかったものが、私の五感に染み込んでくる。健やかさ、私にはこれが必要なのだと思う。そしてそんな私の記憶が人の病気を治していると思うと一層気分が良かった。

 帰り道、大きな池のそばにあるベンチに座ってアイスでも食べようと思い、寄り道をすることにした。果たして目的の場所に着くと、そこには柵に手をついて池を眺めている長髪の女性の後ろ姿があった。生い茂った緑に囲まれて透き通った水、涼しげに泳ぐ鸊鷉、確かにここからの眺めは落ち着くのだ。私は先客に構わず自転車を柵に停めてベンチに座ると、先程貰ったカップアイスを開ける、少し外縁の溶けかかったアイスクリームを木のスプーンで掬って食べる。記憶を抜いたあとのこの時間がたまらなく好きなのである。

 ふと、池を眺めていた女性がこちらを振り向く。色白の儚い雰囲気を纏った美しい人だった。歳のほどは私とさして変わらなそうだ。すると私を見るその大きな瞳が零れそうになるほどに驚きに見開かれて、「あ!」と言った。

「あ、す、すみません、知っている人にそっくりでしたので」
「いえいえ、大丈夫ですよ。今日は暑いですね、ここのベンチは日陰ですから一緒にどうですか」
「え、それじゃあお言葉に甘えて」

 そう言って女性は私の隣に腰掛ける。その際にデコルテの大きく開いた丸首の青い花柄ワンピースが風に揺れてフローラルノートの柔らかい香りがした。それは私が持っているお気に入りの香水の香りによく似ていて、自分の心が解けるのを感じた。

「あの、水」
「はい」
「緑で、きれいですね」
「木が写り込んでるんですかね」

 最初は互いにたどたどしく何気ない景色の話から天気の話をしていたが、それが次第に好きな音楽やファッションの話などになった。偶然にもその多くが私の好みと一致しており、会話は大いに盛り上がって、私はまるで旧知の仲のような不思議な親近感を覚えるのだった。

「やっぱりあの映画良いよね! やー、すごい、まるで昔から友達だったみたい」
「私も感動しています」
「こんなに好みが近い人って存在するんだね、一個一個の捉えかたも近くて凄くスッと腑に落ちるというか。あー、楽しい」
「あ、そろそろ私帰らないと、残念ですが」
「うん、話せて良かった。あ、そうだ名前は」
「水野です、水野彩」
「私は千條雪、よろしくね、水野さん」

 昼近くになって私達は別れた。連絡先を交換して、今度きっと食事にでも行こうという柔らかい約束をした。私はこの偶然の出会いがとても嬉しくて、一日中ウキウキしていた。自分の好きなものが好きな人という存在が、こんなにも楽しいものであることを暫し忘れていたような気がする。

 それからというもの、彼女とはメッセージで頻繁にやり取りをするようになった。話せば話すほど好みの違いを探すのが難しいほどで、私たちはますます仲が良くなった。もはや親友と言っても良いほど私は彼女に心を開いて行った。

 暫くしてからのある日、珍しくバイトもなく彼氏との予定もないので、私は彼女を誘って街にランチに出かけた。久々に会った彼女はやはり儚げで弱々しく、しかしそれが一層彼女の美しさを際立たせていた。私たちの好きなタイ料理屋に入って、美味しいものを食べてビールを飲みながら、二人は上機嫌だった。会話は小さな毬が跳ねるように自在に行き交い、そして踊るたびに彩り豊かに花開いた。

「水野さんと話していると本当に楽しい。まるで生き別れの妹みたい」

 私がそう言うと、彼女は少し曖昧な表情をして、目線をそらして窓の外を何を見るともなく泳がせた。私が訝しんで首を傾げると、彼女は深く目を閉じて、再び開けて上目遣いに私を見た。

「私と千條さんの好みが似ているのって、偶然じゃないんですよ」

 運命とかそういうことなのだろうか、何かスピリチュアルな意味がそこには含まれていて、そういうことに恥ずかしさを感じていると言った様子だろうか。などと愚考していると、彼女は耳慣れた言葉を言ったのだ。

「嘘は薬か、誠は毒か、相まって世は悠久に健やかなるを得るなり」
「あ、それは」
「私、あそこのドラッグストアの常連なんです」
「へえ、私もそうだよ、よく行くんだ嘘の方で」
「何事も造化の配剤に帰したる古人の言も、蓋しこの意に出でざるべし。と本当は続くんですが、それはどうでも良くて。私は昔から体が弱くって、高校生の頃もう長くはないって言われていたんです」

 彼女はそう言うとさっきまでの曖昧な態度が改まり、背筋を伸ばして話し始めた。

「千條さんは薬の方は買ったことありますか」
「いや、ないよ。普通の薬と比べてだいぶ高いし、それが必要になるような病気とかには幸い罹ったことがないから」
「あの薬はよく効くんです。ただ死を待つしかなかった私が治ってしまうしまうくらいに。私は薬の常連なんです」

 彼女に漂う淡さは生命の淡さだった。椅子に真っ直ぐに座る彼女はピアノ弦のように美しかった。私は彼女の言葉に耳を傾け続けた。

「あの薬には副作用があるのをご存知ですか」
「いや、知らなかった。強い薬だから体に負担がかかるとかかしら」
「いいえ、違います、あの薬は驚くほどに人の体に浸透して、まるでそれが自然のことのようにめまいも眠気も痛みもないんです。ただ一つ抗えない副作用があって、それというのは、嘘を受けた人の記憶が入り込んでくるんです」
「え、それじゃあ」
「はい、私が千條さんと同じ好みなのは偶然ではない。薬の副作用によるものなんです」

 驚きで頭が混乱した。彼女は私の捨てた記憶を副作用として持っていると言うのだ。まるで過去が私を追いかけてきたように感じた。彼女に感じていた親近感が、瞬く間に凍りつき、体がこわばるのを感じた。そして、騙されていたような気持ちになった。私の様子に気がついたのか、彼女は寂しそうな表情を浮かべて微笑んだ。

「私はずっと体が弱くて、学校も休みがちで、学生時代の思い出なんて何もない、ただベッドで横になる日々があっただけでした。だから長くはないと言われたとき、こんな日々が終わるのなら、それでも良いと思ったんです。健康な生活に憧れはありませんでした、想像がつかなかったんです。今あるこの無味乾燥な毎日だけが真実で、それは私に希望も絶望も与えず、ただ虚無があるだけでした」

 水野さんは泡の消えたビールで一口、唇を濡らすと再び口を開いた。

「私の両親はどこで聞いたのかあのドラッグストアの噂を耳にして、祈るようにそこに赴いたのです。果たして私は窮地を脱して、生き長らえました、そのときに知らない少女の記憶が流れ込んできたのです。それは学校で虐められた記憶でした。しかし、それだけではなくて、そこにはこの子の初恋の思い出が強く結びついていて、その甘く切ない気持ちが私の体を血のように循環したのです」
「それが私の記憶だった」
「そうです。初恋の松下くんと付き合えるようになったんですが、それが原因でクラスの女子から虐めを受けます」
「全く覚えがないわ」
「そうでしょう、嘘によって捨てられた記憶ですから。でも私にはそれが、その記憶に残った感情が鮮烈で、瞬く間に虜になってしまったのです。それからというもの、私は頭痛がしたり、少し風邪をひいたくらいでもあの薬を頼るようになりました。でも、病気や痛みなどは建前でしかなくて、本当は副作用、人の記憶をもっと味わいたかったのです」

 私の捨てた記憶が誰かの命を助けたのは良い、それは嬉しいことだった。しかしその記憶が誰かに見られているなんて想像もしていなかった。まるで秘密の日記を覗かれたような感覚だ。少し違うのは、捨てた記憶はもはや完全に自分の中で自分自身と結びつくことはなく、何の感慨もなく、何の感情も想起されなかったということ。恥ずかしいという感情も、辛いという感情もわかず、ただ事実として自分の捨てた記憶を持っている人間がいるということに嫌悪感とまではいかないが、収まりの悪い違和感のようなものを感じるのだった。

「そうしているうちに私は同じ人物と思われる女性の記憶を見ていくことが増えていきます。恋人と喧嘩したり、仕事で嫌なことがあったり、ちょとした恥ずかしい出来事があったり。その人は恐らく嘘の常連で、私が購入した薬に頻繁に登場するようになりました。彼女が捨てていったそのどれもが私には輝いて見えて、次第にその人の記憶が好きになり、その人のことが好きになったのです。私があの池にいたのは、記憶からその人の足跡を辿っていたからです」
「私の捨てた記憶をあなたは集めていた」
「はい、ごめんなさい、そうです。気持ち悪いですよね。でも、私はあなたの記憶がたまらなく好きでした。自分では経験することのなかった様々な思い出が、まるで宝石のように輝いて見えました。この趣味や嗜好も、記憶の断片から集めたものでした。私はきっとあなたになりたかったんです」

 私が軽い気持ちで捨てていったその記憶に、彼女は救われたのだと言う。彼女は私が気付かなかった輝きをその記憶から見出し、それを希望に日々を生きて来た。この白く美しい女性は、自分の中身が空っぽだと言って、私が放擲した過去の端くれを一生懸命に収集していた。そして幾つかの思い出を私に話してくれた、例えば習い事が嫌で泣いていると母親がインスタントラーメンを作ってくれて機嫌を直す記憶だとか、昔の彼氏が私に初めてプレゼントしてくれたぬいぐるみが気に入らなくて不機嫌になった思い出だとか、友人の結婚式で披露した踊りの出し物で私だけ失敗してしまったこととか。どれを聞いても私は全く覚えがなかったし、自分のことだなんて思えなかったけれど、その端々に出てくる名前や場所は確かに私に関わるものたちだった。

 捨てられた記憶は誰のものになるのだろうか。もはや私自身とは結びつかず、誰かの記憶に入り込んでも他者の記憶であることが明確なこの記憶は。ぽっかりと浮かんで、漂流する記憶。私の、しかし私のものではない、けれど水野さんの記憶ではない記憶。私は持ち主のいない記憶を想って少し切ない気持ちになった。

「その、私の記憶で良ければ全然嬉しいんだけど、いや嬉しいのかわからないけど、思ったよりも自分が不快感を覚えているわけでもなくて、ただちょっと変な違和感があるだけで、それがなんか切なくなってきちゃって」
「私は、千條さんの記憶が好きです。記憶って、多分、時間が経つにつれて輪郭が曖昧になっていって、まるでシーグラスのようになることがあると思うんです。私は人の記憶を見ることでそれを知っている。だからその、こう言うのは自分のしていることと矛盾するようなんですが、千條さんには自分の思い出をもうちょっと大事に寝かせる時間があると良いのかも知れないと」
「それを言ったら水野さんはもっと自分の思い出を作っても良いと思うんだけど」

 お互いに人のことは言えないのだ。私は気分によって簡単に自分の記憶を捨て続けてきたし、彼女は人の記憶に依存して自分をなおざりにしてきた。私の言葉は売り言葉に買い言葉だったと言っていい、何故ならそれは図星だったから。私は彼女から聞かされた私の思い出話を少なくとも楽しく聞いていた。私が記憶を捨てずにいたならば、彼女の言う通り、時間の波に揉まれた思い出が、見れるものに変わったのだろうか。そう思わずにはいられなかったのだ。

 彼女は気まずそうに目を伏せている。長いまつげが窓からの光を受けてキラキラと光っている。そうだ、彼女から言われた正論は、普段の私ならば忘れたいと思うような言葉だったし、明日にでもドラッグストアに行って嘘を受けていたろうと思う。けれど、今日の時間は確かに楽しいものだったし、目の前に彼女の姿は絵になっていて、忘れるには惜しい情景だった。

「ねえ水野さん」
「は、はい」
「その、また私に私の思い出話を聞かせてくれないかな」
彼女は目を輝かせて「はい、喜んで」と言った。

 そんな彼女が可愛くて、私も嬉しくなった。私たちには時間がある。まだまだ一緒にいられるだろう。一緒に思い出を作ろう。そしていずれ私と彼女で同じ思い出を話せるようになれればいいな、と思うのだった。

 窓の外は夏で、彼女は透き通っていて、私は海を思い浮かべていた。

【完】

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