白いコギト
山には主人をなくした黒髪で肌の白く美しいアンドロイドが一人住んでいて、主人の土地であった山で草むしりをしているところがときどき見られる。なんとかという有名な日本の人形師が造形したオーダーメイド製だそうで、こんな片田舎では珍しい代物だから、誰もが知っていた。近所の人間は好奇心から話しかけたり、ちょっかいを出したりとしていたが、しかしあまり上等なAIを積んでいないらしく、要領を得ない返答であったり、融通の効かない行動が目立っていたため、近所の人々からは安吾の白痴を倣ってちょっとした蔑称のようにオサヨと呼ばれていた。
山奥の館の持ち主である主人はもう五年ほど前に病死しており、遺言には遺産が尽きるまでオサヨを館に住まわせ続けてくれと記されていたので、遺族が一年に一度くらい様子を見に来る程度で、オサヨはずっと一人であった。彼女は世話のする人間のいなくなった館で寝具を整え、掃除屋洗濯をし、誰も食べるもののない料理を作り、一日の仕事を終えると充電器に接続しスリープする。そしてまた朝五時に起動すると同じように一日の仕事を開始するのだった。それ故に館はいつでも客を歓迎するかのように清潔で調度品はきれいに整っていた。
フリーランスでwebサイトのコーディングを商っている順英という男が近所の小さな一軒家に住んでいた。家は親からの譲りもので住む場所には困らないが、あくまで雑用レベルの下請けであったから不如意な生活を送っており、趣味で何かを買うということも長い間できていなかった。生きるために働いてその他には余裕はないといった風情で、そういう生活の虚無に目を向けると気が変になりそうだったから、仕事に集中してなるべく考えないように過ごしていた。
順英は朝のうちに山に散歩に出かけて、たまにオサヨの姿を見るのが唯一の楽しみだった。簡単に言えば順英はオサヨの見た目が好きだった。オサヨの二重まぶたの切れ長の目尻に赤いアイシャドウが似合っていると思っていた。小さな口に内側だけいやに赤い唇に胸を高鳴らせた。オサヨも何度も会う順英を記録していたので、見かければ一揖するようになった。それだけで順英は嬉しかった。
しかし最初は人の持つ人形が美しくて憧れのように見ていたものが、次第に人の女のように見え、感情の色が恋慕に染まるまでそう長い時間はかからなかった。何よりもオサヨには人間の女との関係に生まれるような感情の駆け引きや、裡でどんなことを考えているのかというような邪推の入る余地がなく、それがいっそ清白で彼にとって夢に見た真に純潔な女であるように思えた。
女に恋い焦がれる男というのはいつの世も実に論理性に欠けるものだ。彼は昼夜問わずオサヨの影に悩まされ、その白い肉体を抱きしめられたらと思い続けていた。自分の生存するだけの無為な生活を彼女のために使えたらと願い、仕事中も彼女の感情のない笑顔――挨拶する際のひとつの機能として備わっている笑顔――を思い浮かべて、それを見るためならばきっとなんでもできるように思った。然るに片想いの心は女を想えば軋み、その度に撓んで行くようであった。人の所有物としてのオサヨは、それを遺族から買い取るにしても彼の収入では全く手の届かない代物であったし、合法的に彼女を自分の元に置くことは叶わないとわかっていた。となれば心の焼けるような痛みを治めるには、これを忘れるか非合法の手を取らなければならないと結論した。すなわちオサヨの所有者権限の変更による窃盗を考えたのである。しかし底辺のwebコーダーである彼はHTMLやCSS、JavaScriptが多少判る程度で、その他の言語になるとさっぱりであったから、どのようなプログラムが必要かわからなかった。仕事の合間をみては色々と調べてみると、アンドロイドの非合法な所有者権限の強制変更が可能なアプリケーションがあることを知った。そのソフト自体はそれなりに高価な価格が付いてはいたが、違法サイトで無料でダウンロードができるようだった。泥棒のためのソフトがクラックされてバラ撒かれているのは、何か寓話のようでおかしかった。
冷たい空気が肌を優しく刺すよく晴れた冬の朝だった。順英はオサヨが山の道を歩行しているのを目にすると、素早くそのそばに近寄って、彼女の背面の首筋にある接続部にタブレットを繋げると、違法ソフトを使用して彼女の所有者権限をリセットしホストを自分に書き換えた。本当に瞬く間のことだった。もっと長ったらしいプロセスが必要なのだと思っていたからことの呆気なさに順英は肩透かしを食らったような気分だった。だがしかし、今この時点でオサヨは自分のものになったのだと思うと口から奇妙な笑い声が漏れ出た。たったこれだけのこと、その過程がどうあれ、支配欲というものは潔く満足するようで、順英はオサヨのシリコンのような柔らかくも少し冷えた手を握ると、それを引き自分の家に連れ帰った。二人の行き先に雪が振り、それがさして積もるともなく斑雪となると、いよいよ冬が始まったようであった。
オサヨとの生活は幸福であった。館でやっていたように、オサヨは順英の身の回りの世話をした。様々な家事や買い物、裁縫や調べ物の手伝いなども行ってくれた。生活の中で順英は殆ど表情の変わらないオサヨの裏表のない顔を見て、やはりそれが美しいと思った。ときにはオサヨの服を脱がして自分を慰めることもあったが、その度に順英は彼女の純白を穢したようで胸が潰れるようになり「すまない、すまない」と言ったが、決まってオサヨは「元気をだしてください、生きるのは素晴らしい」と答えて、自分の体や床に溢れた精液を丁寧に拭うと、服も着ないまま掃除を始めた。
または順英は泣きそうな夜にオサヨを抱きしめて眠った。オサヨは自重で順英を潰さないように腕や足で体を少し浮かせて、抱きしめられやすいように体勢を調整した。順英はオサヨのそういったささやかな心遣いに気が付かないくらい鈍感な男だったが、彼がどのような情の人間であるかはオサヨの仕事に於いては末梢的な問題であった。とかくオサヨは順英に尽くした。それは情というものでは勿論なく、機能としてのサービスといったたぐいのものではあったが、余計な感情の入る隙のないそれは順英にとって清潔で純真なものに感ぜられた。順英は日頃の感謝を込めて、初めて自分で選んで花を買った。「人は人を大事だと思うときに花を贈るものなんだ。」そう言ってオサヨに花を渡すと、彼女はコーラの瓶にその花を活けた。
やがて順英は赤貧洗うが如し金銭的な困窮を極め、オサヨを維持することが難しくなった。生きることとオサヨとともにあること、天秤に掛けた際、結局彼は自分の生命を優先することにした。彼が愛情と思ったもの、それはただ美術品を手元に置きたいという所有欲だったのかもしれない。それでも順英の胸は確かに痛んだ。目に涙を浮かべながら、オサヨを山奥の館に戻し、そこに置いていった。館は埃が薄っすらと積もり、人の手に触れられなかった調度品は傷んでいた。オサヨがカーテンを開けると陽光が差し込んできて、人のいない館が深呼吸をしたようだった。庭には勿忘草が無造作に咲き春だった。
ところが、オサヨは所有者の設定が初期化されずにいたから、山奥の館に居着くことはなく順英の家の近くを歩き回った。そして順英は既にその家を出て実家へと戻っていたので、オサヨは正しく仕事を実行することができずただ歩き回るだけで、何をするともなく時間を消費し続けた。充電のためだけに館へ戻り、また朝になると山や順英の家の周辺を徘徊するのだった。そうしているうちに自己メンテナンス機能に異常が生じて、オサヨの姿は日に日に薄汚れていった。艷やかだった髪は乱れ、肌は埃で汚れ、衣服は裾からボロボロになっていった。美しかった顔立ちがいっそうおどろおどろしさを強調するようで、その姿はまるで本物の狂女の如く、近所の者たちは不気味に思った。
ある日近所に住む少女が山奥の館の近くに迷い込んだ。オサヨは館の外に置かれたベンチに座って動かなかった。少女はオサヨをしげしげと見ていたが、目を開きつつも微動だにしない彼女にやがて興味を失い、館を探索した。館は荒れていた。植物が伸び放題になり、部屋の中も埃や蜘蛛の巣だらけ、本の背は焼けて色あせて、ベッドには染みができ、壁掛け時計は時を刻むのを止めていた。まるで幽霊屋敷のようで不気味だったが、それが少女の好奇心を駆り立てるようだった。少女は自分が冒険者になった気分になって、勇ましく館の中を闊歩した。
ところでオサヨが手入れをしなくなってから随分な時間が経ってから、館には肝試しをするようにいたずらをする若者が増えていた。中にはものを壊したり、盗んだりする者もあって、それによって部屋によっては家具の状態が悪くなり、危険なものもあった。食器棚もその一つで、変にずらされてバランスが悪く、少しの衝撃で倒れてしまうそうだった。少女は手に持っていた棒でそこかしこを叩きながら歩いていた為、運悪くと言うべきか必然と言うべきか、食器棚はゆっくりと傾き少女に影を落とした。大きな衝撃音がしてガラスが飛び散ると、少女はびっくりして後ろを振り向いた。そこには食器棚をその身で支えるオサヨがおり、その首や腕にはガラスによって深く傷が付いていた。それを見た少女は恐怖で泣き出してしまったが、オサヨはそっと人差し指を立てると、庭から花を摘んで来て、両手いっぱいの勿忘草を少女に渡した。少女はキョトンとしたのちに嬉しそうに笑うと家に帰っていった。
少女がどのような話を母親にしたのかは判然としないが、すぐに荒れた館と異常をきたしたアンドロイドについての問題提起があった。特にアンドロイドはもはや職務を遂行してはおらず、何かしらの異常が見られ、ほぼ野生化したものであると少女の母親は言った。それを受けて保健所は遺族に連絡を取り、オサヨは処分されることとなった。
そんなことも知らずにオサヨはまた山を歩いて空を見ていた。胸中には実行不可能なルーティンが働いており、順英の世話について思考していた。オサヨは全て覚えていた、前の持ち主である館の主に従事していたときのことも、順英とともに生活していたことも。ただ実用する必要がない場合には参照することもなかった。思い出すことのない思い出。彼女の持ち主はふたりとも彼女の心に幻想を抱いていた。例えば順英であれば空を見るオサヨが何を感じていたのか、その感情をロマンチックに夢想することもあったろうが、彼女は自分の設定された仕事を実行することのみが存在意義であり、それ以外のものなどなかった。でもキッカケくらいは良いだろう。彼女の思考ルーティンは順英の使用した違法ソフトによって幾つかのバグを抱えていた。メンテナンスの不実行もその一つだったし、無意味な徘徊もその副次的な実行の一つだった。だから今オサヨが急に走り出してもそれは不思議なことではない。オサヨは走って、山を降り、町を駆け抜けた。パン屋の前を通って、本屋の前を越えて、線路に沿って走った。その目には雲が写っていて、会いたい人がいるかのようだった。
【完】
―――――――――――――――――――――
お題:野生