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だれかのたいせつな場所
みよたの広場
このnoteを書いているのは、僕が住む長野県小諸市のほど近くにある、「みよたの広場」という場所が存続の岐路に立たされているからだ。
みよたの広場は、文字通り「御代田町(みよたまち)」という町の中心部に位置している、小さな小さな広場。何もなかった荒地を、行政ではなく、「地域に居場所をつくりたい」というとてもシンプルな動機を共有した何人かの人たちが開拓し、数年かけて仲間を増やし、一歩一歩作り上げていった。
ところが今、その場所が家賃問題というのっぴきならない壁に阻まれ、存続がとても危ぶまれている。簡単に言うとこんな経緯だ。
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実は僕自身、この広場との関わりが格別深いわけではない。
友人もよく集まっているので、知り合いに行こうよと誘われてたまにふらっと遊びに行ったり、面白そうなイベントがあったときにちょこっと顔出ししたりする。
けど、決してこれまで運営にがっつり関わったり、広場の「ため」に何かを意識的にしたわけではない。したがって、この広場との関係に限っていえば、僕は限りなく「生産者」ではなく「消費者」に近い。自分の生活に合わせて、広場のメリットを都合よくつまみ食いしている、そんな感覚だ。
そんな僕が、今ここで広場のnoteを書くのには、それなりにワケがある。
ひとつには、広場の存続を前に頭を抱える友人たちを前にして、消費者としてしか広場に関われていない自分自身に、どこかもどかしさと後ろめたさがあったこと。広場に薄く長く関わりを持ってはいたものの、まだ僕は僕なりの広場との関わり方を見つけられていない。
そんな気持ちが、心のどこかにあったんだろうと思う。
でも、それだけではない。もっと大きな動機、いや、今この瞬間に何かを書かなければならないという謎の使命感に僕は突き動かされている。
たぶんそれは、ほかならぬ僕自身の人生に、「場所」を失った経験が大きく影響しているからなのだと思う。
消えたふるさと
どこかで僕の話を知ってくださった方は聞き覚えがあるかもしれないが、僕の故郷である奈良県大塔村は、過去にダム建設にともなう水没を経験している。
戦後復興の象徴として多大な期待を寄せられたダム建設。数年にわたる攻防は、血で血を洗う反対運動と村人間の不可逆的な禍根を残しながら、最終的に111戸を水の底へと飲み込んだ。それは、ひとつの共同体だった「むら」が解体した瞬間でもあった。それに追い打ちをかけるように、その後みるみる過疎化が進んだ。5,700人いた人口は、今ではもう200人を切っている。
そして、幼い頃に廃れゆく故郷を間近に見た経験と、こうした昔話を祖父に聞かされたことが原体験となって、今は村を「看取る」というテーマで活動を続けている。
こんな僕にとって、「場所」という不可思議な存在は、自分の人生を大きく左右する特別な意味を持つ対象になった。
「場所」とは何なんだろう。なぜ人は場所を失うことを恐れるのだろう。
場所とはなにか
僕のお気に入りの1冊に、エドワード・レルフというカナダの地理学者が書いた「場所の現象学(Place and Placelessness)」という本がある。
場所を主題にしたこの本は、人々の経験から出発し、場所が人間にとってどういったものであるか、そして現代社会において場所はどのように変質しつつあるかをひも解いていく、とても刺激的な一冊だ。
場所とは何か。レルフは、場所についてこのように表現している。
場所は、意志の対象にされた物体や出来事にとっての文脈ないし背景であり、またそれ自体が意志の対象にもなりうる。p113
人間が必要とするのは土地の切れ端ではなくて、「場所」なのである。それは人間としてのびのび発展し、自分自身になるための背景なのだ。この意味での場所はお金で買うことはできない。それは長い時間をかけて人々の平凡な営みによってつくられなければならない。彼らの愛情によってスケールや意味が与えられなければならない。p185
レルフに言わせれば、広場も、集落も、それ自体はただの空間(space)でしかない。
しかし、私たちは様々なかたちでそこに意味を見出すようになる。
空間への働きかけや経験の積み重ね、意志をもった関わりを通じて、空間はその人独自の形で「個人的に」経験される。こうして、その人の人生と場所が深く関わりを持つにつれて、空間は「生きられた空間」、すなわち場所(place)へと変化する。
生きるとは、空間に意味を与えることである。
そして意味を与えられた空間が「場所」である。
これこそがレルフのいう「場所」の本質である。
そして、場所に根付いていくことは、私たちに「安全地帯」をもたらしてくれる。レルフはこう述べる。
ある場所に根付くことは、そこから世界を見る安全地帯を確保し、また物事の秩序の中に自分自身の立場をしっかり把握し、どこか特定の場所に深い精神的な愛着をもつということである。p103
今はとても不安定な時代だ。何が正しいのか、何が拠り所になるのか、誰にも分からない。
そんな中でも、生まれたての赤子が親に抱かれたその胸から安心して世界を眺めるように、安心できる場所の存在は、コントロールできない世界の中で、自分自身の存在や自分なりの秩序を確立する機会を与えてくれる。不安定な社会のなかでも、自分の立ち位置を確認する道しるべを与えてくれる。
だからこそ場所は、その人のアイデンティティと密接につながるようになる。自分自身が意味を与えた存在だからこそ、場所を失うことは、自身の一部を失うような、耐えがたい痛みをもたらす結果になりえるのだ。
すきまが必要だ
編集者の井上慎平さんが、広場についてこんなnoteを寄せていた。
バリバリのITスタートアップで走り続けた井上さんは、双極性障害を患い、人と話すこともできなくなってしまった。そんな時に偶然めぐりあった広場。そこで、じっと焚火を眺めたり、無心にまき割りを繰り返したりするうちに、気がつけば自分の役割ができ、広場は「居場所」へと変わっていったそうだ。
現代は、私たちが場所に意味を見出すことがとても難しい時代だ。加速する社会は、私たちが場所への愛着を感じる余白を与えないほど、目まぐるしい速度で移りかわっていく。
今や僕らに生きる意味を提供してくれる場所なんて、あたりを見渡してもそうそう見当たらない。すべてが流動的で移ろいやすい時代の中で、僕たちに安心感をもたらす場所なんて数えるほどしかない。
もちろん、誰もが旅人としてたくましく生きていくことができるのであれば、別に場所についてあれこれ考える必要もなかったのかもしれない。
けれども決してそうではないことを井上さんのnoteは教えてくれる。走り続けることでしか生き残れない社会なんて、僕はまっぴらごめんだ。
だからといって、もう僕たちは、かつての集落のように、狭い共同体の中で生きる社会を想像することはできないし、戻ることもできない。僕らはそこに還っていくには自由になり過ぎている。今さらガチガチの共同体を再生したところで息苦しいだけだろう。
好む好まざるにかかわらず、僕たちはバラバラに切り刻まれた個人として、変化の激しいこの社会を生き抜いていかなければならない。
けど、だからこそ、この加速し続ける社会の中で、ちょっとした余白や、空白や、すきまを与えてくれる広場が必要なんじゃないか、と僕は思う。
ひとりでいても、誰かといてもいい。ゆるく他者とつながりあって、自分の存在を確認できる、そんな場所。
だれかのたいせつな場所
祖父が大切にしていた場所はなくなってしまった。でも、今目の前に、誰かが大切にしている場所がある。誰かにとってかけがえのない場所がある。そしてその場所は、今の社会とってとても大切な役割を果たしている。僕にとって応援する動機はそれだけで十分だ。
そして願わくば、僕にとっても、そしてこれを読んでくれているあなたにとっても、このクラウドファンディングがきっかけとなって、みよたの広場が僕たち自身にとってもかけがえのない「場所」になっていけばいいなと切に思う。
支援をすることは、自分なりの意味を与えること。それはきっと、場所が「場所」になっていく最初の一歩になる。
そう信じて、このnoteをしたためている。