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コロナでオンライン帰省したら初めて家族が家族になった話

 ー今年のお盆はオンライン帰省でー

 そんなキャンペーンが日本で展開されている。
 実は当方アメリカにいてイマイチ実感がないのだが、確かに最近の報道を見れば、帰った方も不幸になる、迎えた方も不幸になる、誰も幸せにならないとんでもない夏休みのようである。

 ・・・ところで、オンライン帰省って何なのだろう。

 こんな疑問を抱いたのは、どうやら僕だけではなさそうだ。
 SNSを開くと、「オンラインって…うちの田舎インターネット繋がってないよ!」「オンライン帰省いつもやってますけど」といった意見がちらほらあった。言い出しっぺが誰かはよくわからなかったが、首相まで「オンライン帰省」と明言しているのだからすごい。

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 ただ、こうしたコメントを見ていてふと気がついた。それは、「帰省=故郷に帰って家族と話をすること」が多くの人の前提になっているということである。
 当たり前じゃないかーそんな声が聞こえてきそうだが、ちょっと待ってほしい。

帰省したとき、みんなそんなに家族と話をするのだろうか?

 当方の実家は奈良にあるのだが、今時珍しい4人兄弟である。父方の祖父母も存命なので、トータル8人という大家族で暮らしていた。大家族と聞くと、もしかしたら「騒がしいけど、にぎやかで明るい家庭」を想像する人もいるかもしれない。ただ、我が家は少し違っていた。

 細かく話すときりがないが、色んなことが重なって、僕は家があまり好きではなかった。自分で時間がコントロールできる年ごろになってからは、できる限り家にいるのを避けた。みんなが寝静まった時分にそろそろと家に帰り、残り物を温めて食べ、ほとんどの時間を自室で過ごす生活を送っていた。当時の僕にとって我が家は、どこか居心地が悪く、安心できる居場所では到底なかった

 だから、祖父母はまだしも、両親とすらまともに話をした記憶なんて正直ほとんどなかった。両親に話を振られても、それに素直に反応できる純粋さと柔軟さを当時の僕は欠いていた。さっさと食事を済ませて部屋に戻りたい、そんなことしか考えていなかった。この前妻に驚かれたのだが、自分は両親の誕生日すら知らなかった。つくづく親不孝な子供である。

 僕のこうした態度は、社会人になってからも大きく変わることがなかった。

 昔のたぎるような苛立たしさを感じることはなかったものの、面と向かって家族と話すことに若干の抵抗を感じていた。恥ずかしさもあったと思うし、親との価値観の違いに唖然とすることも少なくなかった。特に親父との相性は正直良くなかった。
 当時、生き馬の目を抜くような東京の生活に浸っていた自分にとって、親との会話は「生産性のないもの」だった。堀江貴文さんがかつて「親ほど信用ならない人種はいない」という趣旨のことを言っていたらしいが、それに近い感情だったのかも知れない。

 だからと言って自分は、「親との時間は無駄だ!」と割り切ることもできない中途半端で臆病な人間でもあった。
 「せっかく帰省したのにもっと喋らないと…!」という焦りと、「何を話したらいいかわからない」「今更恥ずかしい」という気持ちがあいまって、いつも実家を離れる際は若干の悔恨が頭のなかを渦巻いていた。
 両親に最寄りの駅まで送ってもらい、ガラガラとスーツケースを押して改札を跨ごうとするときは、決まって涙がこぼれそうになった。親と離れるのが悲しいからではない、素直になれず後悔ばかりが募る自分に、親との時間を大切にできない自分に、腹立たしさを感じていたからだ。

 そうこうしているうちに、僕は仕事の関係でアメリカに赴任することになった。

 たった2年ばかりだが、両親もそろそろ60歳、祖父母に至っては80歳を超えている。もう何があってもおかしくない年ごろだ。
 渡米前には長めの休暇をもらって実家に帰り、空港まで送りに来てくれた親父とは、珍しく2時間ばかりを一緒に過ごした。二人きりで過ごすのなんて何年ぶりだろう。成田空港のよくわからない喫茶店で向かい合って抹茶パフェを食べた。一緒に写真も撮った。僕の知る限り人生でたった一枚の親父とのツーショットだ。
 別れ際には、いつもよりちょっと大げさに笑顔を作って、手を振った。自分なりの精一杯の気持ちを伝えようとした結果だった。でも、帰省の時に感じたほろ苦い後悔は、その時もやはり自分に付きまとっていた。

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 アメリカにわたって半年が過ぎたころ、コロナが猛威を振るい始めた。

 アメリカでは一日で500人以上が亡くなっていた。独特の恐怖感が街を支配していた。人と人がすれ違うだけでも互いに意識し合い、時に罵声が飛び交う。会えばとりあえずハグをするLOVE&PEACEの街ニューヨークからは、ずいぶんかけ離れた世界に来てしまったようだった。

「死ぬかもしれない」

 そんな考えが時折頭をかすめた。一度染みついた恐怖はなかなか拭い去ることができない。当時の僕は、血が出るんじゃないかというくらい両手を石鹸で何度も何度も擦っていたらしい。ばい菌と一緒に心にこびりついた恐怖心を洗い落とせると思っていた。けれども、ここニューヨークで数万人を蝕んできた目に見えないウイルスに、心から安心するなんてことはできなかった。

 そんなとき、日本でもコロナウイルスが猛烈に拡大しているというニュースが飛び込んできた。日本で最初の感染者が出たのは、なんと僕の故郷の奈良県だった。

 死ぬかもしれない。その恐怖の矛先が家族に変わった。

 あの時の覚めるような感覚を、今でも鮮明に思い出すことができる。

 死んだらもう話せなくなる。

 漠然とした恐れは、急に質量のある現実のものとして押し寄せてきた。ちょっとしたホームシックにもなっていたのかもしれない。走馬灯のように奈良での日々がよみがえる。悔恨にまみれた日々も、苛立たしかった日常も、すべては死の恐怖の前で温かい思い出に変わっていた。不思議な感覚だった。今、家族と話すことよりも優先することはあるだろうかーそう考えられる自分になっていた。

 LINEで親父を見つける。僕から親父に連絡するなんて、人生で初めてのことかもしれない。そのとき、親父が出たかはよく覚えていないが、とにかくそこから、僕は定期的に親父と電話するようになっていった。

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 語弊を恐れずにいうと、親父と僕とつなぐ媒介にはコロナの存在が間違いなくあった。学校も職場も閉鎖になって生まれた有り余る時間は、定期的に親父に連絡する口実をくれたし、日々移り変わるコロナの状況は、さしたる話題もない二人に共通のテーマを与えてくれた。

 そうして、1回、2回と連絡を重ねていくにつれて、僕と親父の間にそびえたっていた冷たい壁が、少しずつ溶け始めていくのを感じた。むしろ、そんなものは初めからなかったのかもと思うほど、あっけのないものだった。僕の思い込みとプライドが、そう思わせていたんだろうと今なら思う。

 そのうち、話題はどんどん広がり、個人的な話ができるようになっていった。

 親父の子供のころのこと、趣味、好きなもの、実家のこと、田中家のこと…。窮屈だった家のことまで、今では面白おかしく話せるようになっていった。それは、とても新鮮な経験だった。自分が20数年間を過ごした場所に、どんな歴史があったのか、どんな思いがあったのか。きっと10年前の僕なら、「また始まったよ…」と思って、忙しさを理由に話を遮っていたかもしれない。そんな話ですら、親父との繋がりを感じさせてくれる、温かい共通点に変わっていった。同時に、家族のこと何も知らなかったんだなと痛感する自分がいた。

 人生は個人的な歴史の積み重ねであると誰かが言っていた。

 それは半分正しいが、半分間違っていると思う。なぜなら、個人的な歴史は、必ず誰かの個人的な歴史と重なっているからだ。社会的関係から分断して個人は成立しない。本人にとってポジティブなものであれネガティブなものであれ、人の人生には他人の人生が付きまとっているように思う。

 僕はそこから目をそらし続けていた。家族という枠組みのなかで、強制的に他人の人生と重複させられる苦しみにしか目がいかず、そこから必死に抜け出そうともがいていた。けれどもそれは本質的に不可能だった。自分のなかには、いやがおうでも家族が生きている。親の死を体感したとき、そう自覚せざるをえなかった。

 人と向き合うのはしんどい。

 時間と、体力と、心の余裕と、きっかけがないとなかなか踏み出せない。コロナは図らずもそのすべてを僕に与えた。そして、20年以上も放置し、さび付いていた親との関係の歯車が回り始めた。

 家族は、当然のものとして家族であるわけではない。一緒に暮らしていても心は遠く離れた場所に置き去りにされた家族もいる。かと言えば、遠く離れて暮らしていても、今までにない輝きを持って家族関係をピカピカに磨いている人もいる。家族が家族であるためには、そこに関わっていこうとする主体的意思が必要だということに、改めて気づかされた

 僕にとっての「帰省」とは何か。今ならこう答えるだろう。

「大切な人と、大切にできなかった時間を取り戻すこと」

 電話でもいい。メッセージでもいい。遠く離れた大切な人に、少しでも自分の思いを伝えることができれば、十分それは帰省と言えるんじゃないかと思う。

 本当は今ごろ、アメリカ全土を旅行したり、インターンに精を出したり、積りに積もった課題図書を爆速で読み進めるギラギラした夏休みを送っているはずであった。
 けど、こんな夏休みもたまにはいいかな、と今は心の底からそう思っている。

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終わりに

僕の雑談にここまで付き合っていただきありがとうございました。色んな偶然が重なって、長い長い「家族」との「家族を取り戻す旅」に踏み出すことができた自分の経験をどうしても書き留めておきたくて、普段は触らないnoteに手を出してしまいました。

僕は運が良かったと思います。幼い子供がいることも共通の話題になったし、親父もおふくろもLINEを使っていたし、日本であくせく働いていた時に比べて絶対的に時間が持てていたし。けれども、やっぱりこうして関係を修復することも、オンラインじゃなければ難しかったとも思っています。

対面には対面の良さがあります。一緒に食事を囲んで、酒を飲んで…そんな会話に僕自身あこがれを抱いていました。でも僕の場合、歯垢のように凝り固まった親との関係は、たった年間数日間の帰省だけでは、どうしても解きほぐすことができなかったし、どうしても対面だと生真面目に話すことに抵抗があった。それを、5分でも10分でもいいから、短いオンラインでのスプリングを繰り返すことによって、ようやく結び目をほどく糸口をつかむことができました。この記事を書いて改めて数えてみると、4月から5月の一か月で、親父と電話をした回数はなんと23回。ほぼ毎日電話を掛けていたようです。

ところでこんな話をしていたら、ある人から「この話、親父が死ぬ前に聞きたかった」と言われました。
家族が人と人で出来上がっている以上、楽しい思い出ばかりではなく、二度と空かないよう頑丈にふたをしたり、見て見ぬふりをし続けてきた出来事もたくさんあるでしょう。僕も、親父との間に起きたすべてのことを今一度机に並べて切り刻もうなんて到底思えません。
ただ、そうした過去の暗い影だけを見て未来を語れないんだとしたら、余りにももったいないし、このままだと後悔する一方だ、というのが僕の純粋な出発点でした。

そして、もし僕意外にもそんな思いを抱えている人がいるのであれば、「とりあえず電話してみなよ。言い訳はたくさんあるよ」という気軽な気持ちを持ってもらえたらと思い、所属する団体でこんなキャンペーンを始めることにしました。

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もし僕の投稿を見て大切な人に連絡を取ってくださった方がいれば、 #とりあえず電話してみなよ で呟いてみてください。その勇気が、また別のだれかに勇気をもたらすのだと信じています。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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