ものがたりが生み出す格差の構造
とある尊敬する政治家がいる。
彼は非常に意志が強い。これをやる!と決めたらそこに何があっても突っ走る。自分の信条に従って、そのために敵が生まれたとしても意にも介さない。
そうした彼の覚悟がどこから生まれているのか私は以前から気になっていたが、最近彼と接する機会が増えてくる中で、あることに気がついた。
それは、彼がひんぱんに自分の父親を引き合いに出しているということだった。
彼の父親も政治家で、元々スキーヤーとして活躍していた。彼は、何かにつけて親父のことを引き合いに出す。
「うちの親父は敵がいても恐れなかった」
「僕は親父に似てガンコでね…」
そういう風に父親に言及しているのを聞くにつれて、彼自身の強さなるものがあるとすれば、それは彼の父親の存在が大きいのではないかと思った。
彼の中には父親の姿が強く存在している。
そして、その心の中の父親こそ、彼の力の源泉である。
彼は父親と既に死別しているが、確実に物語として彼の中で親父さんは生き続けている。
それがある限り、彼は孤独になったとしても耐えられるし、辛いことがあったとしても、父親なら…と思うことができる。
いわば、彼は父親から「ものがたり」を引き継いでいるのである。
死んだ人間の物語は強い。
絶対に裏切らないし、二度と帰らない時間の積み重ねは物語の神話性をむしろ高める。
親しい人、特に親という存在は、自分の中に大きな物語を形成してくれる。
自分の強みや使命感は誰しもが求めてやまないものであるが、家系や血縁は我々にそれらを無条件に提供してくれる。
私たちが上の世代から引き継がれているものは、単に財産や家産、文化資本だけではない。
こうした「自分のものがたり」でさえ、世代間で引き継がれる重要な要素なのである。
プルデューという社会学者は、身体化(無意識化)レベルで特有の行動、知覚様式を生み出す性向のことを「ハビトゥス」と呼び、平等で能力主義的な競争過程と、序列維持に寄与する社会構造の関係性を暴こうとした。
東京大学の本田由紀は、コミュニケーション能力や「人間力」といった数値化できない曖昧な能力にもとづく能力主義を「ハイパーメリトクラシー」と呼び、これらが先天的な性格や才能、育ちの良さなどによって決定される可能性が高いことを指摘した。
ハビトゥスのなかにも、ハイパーメリトクラシーのなかにも、「ものがたり」は潜んでいる。それらはすべて潜在的な知覚や測定不能な能力の構築にかかわっているからだ。
父や母が憧れることのできる存在であれば、その背中を自分も追いかけようと思うかもしれない。祖父が苦労して作った会社を自分が立て直す、そう幼い頃に思っていた人もいるだろう。
つまり、生まれつき私たちは「ものがたり」のなかに生きている。
そして、このものがたりの格差が私たちのパフォーマンスに一定の影響を与えている可能性がある。
「ものがたり格差」の実証的な研究はいつか取り組みたい。