言葉はお守りにもなるから
言葉って、誰のためにあるんでしょうね。
僕の仕事は、原稿を読んだり戯曲を解釈したりと、読み手や聞き手のことを優先的に考えることが多いので、自分が、本当は何を思っているのか、分からなくなることが、時々ある…。
それでも、昔ほど、悩まない自分がそこにいる。夏の日差しでTシャツの跡がつくように、自分で選んで歩いてきた証のように思えるようになってきたからだ。
思春期は突然に…。
おうちにいる時間が増えた。この先どうしていこうかな~って思いながらご飯をつくったり、ここではないどこかへ行きたい、なんて、まるで第二の思春期を迎えたような気持ちで過ごしていた。
そういえば子供のころから、火曜日のゴールデンタイムは、バラエティ番組少なかったなぁと思いだしたり、この鬱屈した気持ちを吹き飛ばすために、globeやモーニング娘の曲を流して踊ってみたりしてみた。気持ちは、中二に戻った。そして2日後に筋肉痛になった。身体はアラサーのままだ。
この先新しいスキルが使えるようになるかわからないし、どうせなら、枝葉を伸ばすより、自分の幹を太くすることに時間を使おうと、自分と向き合うつもりで、自分の源泉に潜ってみることにした。でもね、自分の中にあった心の引き出しは、錆びついていたり、たてつけが悪くなっていたりで、書いている今も開けるのに手こずっている。それを開ける鍵となるのが、きっと言葉なんだと思う。
気づいていない思いを発見してくれる言葉がある。
こうしてnoteを書いていて思うけど、書きたい気持ちに対して、とにかく言葉にならないことが多い。誰かのnoteを見ていても、noteの最後に、空白のスペースが広がっていると、それだけ書いたり消したりしたんだと想像すると、途端に愛おしく思えてくる。
そのスペースに、きっと見えない言葉が存在していて…まだ自分でも気づいていない思いを発見してくれる言葉があって…スルっと自分の中に入ってくる…そんな言葉があるような気がしている。だから、もっとみんなの言葉がききたい…。
僕は、それを「ことばの日」のプロジェクトメンバーに出会ってから、より強く思うようになったのです。
言葉はきっと、お守りのようなものにもなるから。
上手に伝えられなくていいし、上手に受け取れなくていい。いつかまたこの生活から、旅にでるそのときには、みんなの言葉をリュックに詰めていってくれたら、うれしいなぁ。