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キリンジの「Love is on line」がスマホ全盛時代でも変わらずに現代の愛をとらえているので私見を書きつらねる

表題のとおりです

曲紹介

キリンジの「Love is on line」という曲をご存知ですか?

とても地味な曲ですし、アルバムのナンバーですし、ライブの定番セットだったりネットでバズったりということもないので、ご存知の方は少ないかもしれません。(といっても、収録アルバム内でのSpotify再生数は「Golden Heavest」に次いで多いのですが)

2006年に発表されたアルバム「DODECAGON」に収録されています。
このアルバムはキリンジ初のセルフプロデュースで制作されており、先行シングルの「ロマンティック街道」「Lullaby」からわかるように、電子音楽やダンスミュージックの要素を大きく取り入れ、変化の時期にあったキリンジの、サウンドを模索している様子がうかがえるアルバムです。

そんなナンバーが揃う中「Love is on line」だけは割と王道のキリンジ・サウンドというか、これまでの路線の延長線であることが非常にわかりやすいバラードで、もうちょっと人気が出てもいいんじゃないかな、というふうに感じる曲でもあります。とはいえ今のKIRINJIからしたら、いかにも王道という楽曲すぎて再演するほどの価値がないのかもしれませんが。

この曲の価値は歌詞にあって、「インターネット上での恋」というテーマで描かれています。掲示板やチャットルームで、趣味や興味関心のつながりをもつ、ということがまだそこまで浸透しているとは言い難いものであり、特にそのような環境で恋を見つけ、生み、育むことの難しさがあったと思います。

というのも楽曲の発表された2006年ごろというのは、当たり前にインターネットが普及している時代ですが、昨今当たり前に利用しているSNSはまだ黎明期でした。
皆がこぞって「mixi」をやって友達向けに日記を書いたり、学生の方は「Facebook」をやっていたりしました。また「Twitter」がリリースされた年でもあります。ネットでの人のつながりが可視化されだした時代ですね。

しかしながら、まだインターネットの入り口はパソコンが主でありスマートフォンという革命的なデバイスは未登場です。老若男女「個と個」で繋がっている、というような時代ではなく、未成年や高齢者にとっては、一部の先進的な人や、実家でたくさんパソコンを使っている子どもなどが掲示板などを利用していたように思います。当時の30~50代にとってはまだまだ「アングラ」な場だったのではないかなと感じます。

そんな「個と個」が繋がる時代の始まりに生み出された「Love is on line」は、パソコン通信の時代、wwwの時代、スマートフォンの時代を通じて、人がオンライン上で恋をすることの普遍性を描いた佳曲です。
よければ聴いてください

Aメロ、Bメロ1コーラスめ

キリンは立って寝る
鳥は枝で寝る
ヒトだけが眠れない 夜は長く

インターネットを眺めているのはたいてい夜の時間です。
動物たちの眠りの不思議な生態に触れたあと、私たち「ヒト」はインターネットでディスプレイの煌々とした光を見つめながら、眠れない夜を過ごしているんですよね。場面提示、完璧です。

君は女ですか
女の振りかな
すれ違ったなら振り向いてね

「ネカマ」っている言葉をご存知ですか?
当時、こういった出会いの掲示板などで、男が女のふりをして書き込みややり取りを行い、純粋な気持ちでやり取りを続ける人を揶揄ったり、悪質なものでいえば、そのやり取りを2ちゃんねるのような場所に晒しあげたりしている悪戯も行われていました。
(ネカマといえば、古式若葉が有名だけど、絶対検索しちゃダメだよ。普通にアウトな出来事だからね)

ネットでのコミュニケーションは文章だけのものだから、当然その人が本当はどういう人で、どういう生い立ちで、どういう声なのか、どういう暮らしをしているのか、なんていうことはまったく想像でしかないわけです。
つまり開示された情報には必ず「嘘」があることを考慮に入れないといけないんですよね。(ひろゆきの名言)
もちろん、生身のコミュニケーションでも嘘、あるいは意図的に情報を隠すなんていうことはできるわけですが、ネットでのやり取りはそういった「嘘」が、とても大事な情報でも、誰でも容易にできてしまうんです。実際に会ってみるまで確認する術もない

「すれ違ったなら振り向いてね」というフレーズも、このようなコミュニケーションをしている仲ではとても貴重なことだということですよね。だって、振り向けないじゃないですか。もしかして街で会ったとしても。会う約束をしてしまったとして、待ち合わせをしても、わからないじゃないですか。

鼻緒が切れたら叫ぶんだよ
僕の袖を千切って
結べばいいだろう

この曲では「糸」や「紐」のモチーフが頻出します。
タイトルの「on line」はログイン状態で時によく表示される「オンライン」という言葉ですし、鼻緒というのは下駄やサンダルの紐部分のことで、鼻緒が切れるというのは縁起の悪い出来事だそうです。
もちろん最も大事なのはインターネット、すなわち「World Wide Web」という蜘蛛の糸の上でのお話であるということです。

何か嫌な出来事が、悪い予感がしたら僕が助ける、ということなんですが、
歌詞のテーマの中で描写される、とても憎い表現ですよね

サビ1コーラスめ

Love is on line, Love is on line
光る朝の訪れを待とう
Love is on line, Love is on line
二人は蜘蛛の糸を渡る夜露さ

光る朝の訪れ、っていいですね。
まだ相手も知らないこの恋が成就することへの期待という大きな意味でもあるし、
深夜に送ったメールや書き込み、オフラインの相手に送ったチャットが、朝に相手が見た時にどんな思いになるかな、という気持ちを抱きながら眠りにつくような気持ちを表しているように感じます。

「蜘蛛の糸」はインターネットのことですよね。
オンラインでの恋を「蜘蛛の糸を渡る夜露」って表現するのめちゃくちゃに美しくて的確じゃないですか?
まず、その水や雫に濡れた蜘蛛の巣のイメージがパッと思い浮かびますし、
夜露、という、昼夜の寒暖差で発生する現象に喩えたのも、オンラインとリアルの差がとても大きかった時代のコミュニケーションの温度感や人格の違いなどを見事に表している気がします。

Aメロ、Bメロ2コーラスめ

新聞配達が廊下を走り抜けた
指先から伝わる愛を感じてるんだ

結局、朝方まで起きていたみたいですね。
指先から伝わる愛、というのは、まさにテキストコミュニケーションで愛を育んでいることを表していますよね。

ちょっと話はそれますが、この表現、今のスマホ時代になっても全然伝わるし、なんならもっとリアリティを増しているように思います。
そこにある場所に座ってキーボードを叩き、情報を伝えるという行為よりも、スマートフォンのような自分専用のとてもパーソナルなものを指で触って、写真や動画や文字を送り合うことの方が、フィジカル的にも心理的にももっと伝わる愛、というものを感じやすいのかな、と想像してしまいます。

フォントが滲む
あやとりをするように睦み合うのなら

嬉しい言葉で少し涙ぐんでしまったのか。
朝方までのパソコンでのやり取りに眠気や疲れ目を感じているのか。
気づいたら、朝の光が差し込んできてディスプレイの文字がうまく見えなかたのか。
「新聞配達」の前段があるだけで、この短い言葉にもいろんな場面や心情が想起されますよね。

この仲睦まじい状態を「あやとり」って表現するの、この歌詞のテーマだったらこの比喩しかないよね、って思っちゃいます。
糸のモチーフであるのはもちろんだし、二人で糸と指先を使いながら、いろんな形を協力して作って、崩さないように続ける遊び。
まるで今の二人がやっていることだよね、と感じるでしょう。

サビ2コーラスめ

Love is on line, Love is on line
心はもう通い合ってる
Love is on line, Love is on line
二人は蜘蛛の糸を渡る夜露さ

テキスト上のやり取りだけだって「心を通い合わせることができるよ」っていうポジティブなメッセージですよね。顔を突き合わせてするコミュニケーションと違うよ、っていうだけで、人と人との交流に本質的に差はないんだ、っていうことも感じられます。新しいことを題材にするんだから、サビにはこれだけ直球なメッセージを込めることもとても大事なのだと感じます。

Cメロ

言葉の泡をかき分けていく
僕は何を探しているのだろう
君一人にめぐり逢いたいのさ


これ、今の時代で語るととってもわかりやすいと思うんですが、
「マッチングアプリ」とかまさにこんな感じだと思うんですよね。

年齢、趣味、婚姻歴、年収、自分のことを赤裸々に言葉にし、これまでよりもずっとカジュアルに出会う土壌が出来上がっています。
インターネットでの恋愛はインフラの観点からも、また時代や文化の観点からも、ずっと身近なものに変わったと思います。

そんな時代になったとしても、結局のところリアルで会うことに勝るものではありませんし、言葉がどれだけ増えたとしても、泡のように儚く、容易に信頼できるようなものではありません。
結局のところ、言葉だけでは泡のようなものであり、方法論や選択肢が増えたからといって、「何を探しているのだろう」という迷いや、「たった一人の誰かを探しているだけなのに」というもどかしい思いからは、解き放たれるということは決してないのだと思います。

最後のサビ

最後に、サビの一文、他のサビと違う箇所だけ引用します。

君は僕を見つけられるかな

このテキストだけのコミュニケーションで、実際に会った時に僕のことがわかるのだろうか。
本当に僕が思っていることや僕の人となりが正しく伝わっているんだろうか

心が通いあう感触がどれだけあったとしても、不安が常に隣り合わせ。
でも確かな希望があり、そこには絶望も過度な期待もない。
結局恋の始まりは不安や期待のないまぜになったものであり、その甘い時間をとことん楽しめばいいんではないかな、と思います。

おわりに

この曲がリリースされてからの20年近くの間に、スマートフォンが生まれ、SNSが生まれ、全ての人が24時間インターネットに接続されているという、正真正銘、個と個が繋がる、とう状態が実現しました。
マッチングアプリという恋愛をするためだけのサービスも生まれ、コロナ禍でリアルなコミュニケーションを制限されるような時代も潜り抜け、私たちの繋がり方、コミュニケーションの仕方はどんどんと変容していくのだと思います。それは、これからもずっと。

どれだけ蜘蛛の巣が張り巡らされても、言葉の泡の中で何が正しいか、何が嘘なのか、というのはさほど変わらないのではないでしょうか。

これからどのような繋がり方の進化が生まれるか想像もつきませんが、まだまだこの歌は普遍性を持ち続けていくことだと思います。

キリンジ、大好きです。




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