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SNSの為に作る動画に疲れた。

しばらくnoteを書くのをお休みしていましたが、(書くトピックがなかった)
2年ぶりに書くことにしました。

5年前の記事を見ると恥ずかしい。
まあ、それも含めて良い記録ということで、、、

記録について

僕は普段、動画クリエイターとして多くの記録を残してきましたが、この記録が「どんな意味を持つのか」というのが、自分の中でテーマになっています。

このときからクリエイターっぽい

記録は、僕らの生活とともにずっとあって、古代の人々が洞窟に描いた壁画や石碑を残したように、感情や価値観を未来に伝えるものだったんだろうと思います。
「ここにいたんだ」
という証明や、未来の誰かに向けたメッセージがそこにはあるんですよね。

19世紀に写真が生まれ、記録はもっと身近なものになりました。
動画も加わって、動きや音をそのまま残せるようになり、記録がよりリアルなものになりました。
技術の進化とともに、スマートフォンやSNSで誰でも簡単に記録を残せる時代になり、それと同時に「記録の消費化」が進んでいった気がします。

僕自身が動画クリエイターとして生まれた背景にも、
そうした時代の変化があるのですね。

記録マン

今では日常のあらゆる瞬間が撮影され、SNSでシェアされてすぐに流れていきます。
もちろん、手軽に記録ができるのはすごく便利だけど、その分、記録がもつ重みや特別な感じが薄れてきたようにも感じてしまいます。

全力のインスタ映えだった時代

動画クリエイターとしての視点

僕が映像にハマり始めたのは、サーフィンをGoProで撮ってSNSに上げたことがきっかけでした。
波に乗る自分をシネマティックな視点で切り取ることで、承認欲求を満たしていた、ただのナルシストでした。

一回も波に乗れなかったサーフィンday

ただその時に、日常の一瞬が特別な「記憶」に変わるのを感じたんです。

映像には、ただの瞬間を記録としてだけでなく、心に残るものに変える力がある。
以来、映像制作にのめり込み、クライアントのプロジェクトにも関わる中で、映像のもつ力にどんどん引き込まれていきました。

けれども、
仕事として映像を追求するようになると外からの「評価」も無視できなくなってきました。
再生数、フォロワー数、クライアントの期待。
そうした評価が意識に入り込んでくると、
最初は「この瞬間を残したい」
と始めた映像も、いつの間にか「見せるための作品」になっていく。
装飾を少し加えたり、完成度を上げたりすることで、オリジナルの空気感が少し美化されてしまっているのではないか、と思うこともあります。

気になる。
今月はあんま伸びなかったなぁ、的な。

もちろん、そうした「作品づくり」には特別な良さがあります。
工夫を凝らして編集をすることで感動が生まれ、人に共感してもらえるのは映像の力です。
でも、「僕が本当に残したかったものは何だったのか?」と自分に問いかける瞬間が増えていきました。
技術や評価を意識して磨かれる一方で、瞬間がもつ「ありのままの美しさ」が薄れているように感じるのです。

現在の活動と合理化された記録

正直に言うと、今の自分の動画制作スタイルには満足していません。
再生数やフォロワー数を意識せざるを得ない状況で、自分が本当に残したいものを、ときには少し妥協しながら作っているような感覚があるんです。
効率や合理性を重視しながら、どこか自分自身を疑いながら映像を作っているようなところもあり、やりがいを感じつつも、心の中での葛藤はどうしても消えません。

毎日5回は見てる画面

YouTubeのレビュー動画やSNS向けのコンテンツは、他社が作り出した「価値」を、そのまま+ちょこっと使った感想を伝える割合が大きいと思っています。
あくまで個人的な意見ですが、どこか表面的、浅はかに感じることもあって、「これで本当に価値を届けられているのだろうか?」と疑問が湧くことも多いです。

また、SNSで注目を集めるコンテンツも、速さや効率を優先するあまり、似たような内容がコピー&ペーストのように量産されがちです。
評価の数字や再生数に左右され、見せ方ばかりが重視されていく今の状況に、クリエイターとして疑問を抱く瞬間が増えています。
今では、誰もが数時間でそれなりのクオリティの動画を作れるようになり、日々無数のコンテンツが生まれ、消費されていく。

だからこそ、「本当に残したい」と思えるような作品に時間をかけて向き合うことに、以前より強く意味を感じるようになりました。
効率や即時性を重視する映像制作から距離を置くことはできないけど、両立する努力はしています。
もっとシンプルに、記憶や感情に寄り添うような記録、作品を残したい。
それが今の自分の大きなテーマです。

京都に住んで1年とは思えない「侍」

もちろん、こうした合理的な制作活動がなければ、今のプロジェクトも成り立っていません。
そして、この積み重ねがあってこそ、僕はkyuという、動画ではない新しい形の作品へと挑戦することができました。

kyuという試み

僕は、SNSで消費されていくコンテンツの世界にどっぷりと浸かってきました。
手軽に再生され、すぐに流されていく映像の中で、価値を届けることが本当にできているのか、自問し続ける日々です。それでも、その流れの中にいる自分から抜け出せないもどかしさがあり、「評価される」ために映像を作り続ける自分を少し遠くに感じることもあります。

そんな中で、kyuは自分にとって、もう一度「記録とは何か」を見つめ直すための場でもあります。
心の奥にしまい込んでいた本来の記録の価値を、自分なりに取り戻したいという願いが、kyuには詰まっています。
時代に流され、あらゆるものが次々と消費されていく中で、記録を未来に向けてそっと残し続けること。
それが、いつか「心に触れる思い出」として未来で生き続けることを僕は信じています。

こうした思いから、僕はkyuを立ち上げました。
kyuは、思い出を「そのまま残す」ためのシンプルな記録手段です。
今のカメラやアプリのように多機能化は追求せず、「記録する」という行為そのものを純粋に楽しめるもの。
装飾やフィルターは加えず、その瞬間の記憶がありのままに残るように。

2021年1月3日 に公開した動画
あの頃のメンバーが作ってくれた動画
本当にポケットの中の「タカラモノ」だった。


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大川優介 Yusuke Okawa
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