【西日本豪雨】交通対応最前線ダイアリー:7月8日-記録
7月8日(日)
この日は日曜日.大規模な災害が発生した後であるためか,それとも,日曜日であるせいなのか,街は閑散としている.
大規模災害が発生した後は,学術団体としての学会が「災害調査」を行っている.これまでの大きな災害では,調査団が編成され,落ち着いた頃に報告会がなされ,報告書もまとめられる.今回の災害でもおそらく調査団が編成されるであろう.そのために,できるだけ「今の様子」を記録しておこうと思った.
自分自身の専門は,「交通」であり「まち(づくり)」である.まずは広島市内の交通拠点の様子を見に行こうと思い,出かけた.広島と呉の間が往来できない状態であり,まずは,広島・呉と愛媛県・松山市を結ぶフェリーが発着する,広島港を見に行くこととした.なお,広島呉道路の水尻地区が崩落したのが7月8日の朝で,朝出かけるときには,まだ崩落したことを知らなかった.
広島港に行ってみると,案の定,車が溢れている状態であった.港の自動車待機スペースだけでは収まり切っておらず,周辺の道路まで並んでいた.到底,その日のフェリーの数だけでは捌き切れるような台数ではなかった.並んでいる方々が,その日のうちに戻れたのかはわからない.
▼広島港に並ぶ,フェリー乗船待ちの車の列(7月8日)
その後,広島駅へと向かった.この日から新幹線が動き始めた.さすがだなと思った.広島駅新幹線口(北口)に向かうと,普段バスが停まっているスペースはガラガラ.タクシーもほとんどいなかった.ただ,送迎の車は多く,送迎車用の駐車場や車路は車でいっぱいであった.
▼広島駅新幹線口の様子(7月7日)
コンコースへと進む.駅前広場の閑散とした様子とは異なり,新幹線改札口近くの券売機やみどりの窓口は,多くの人で溢れていた.運休の期間の切符の払い戻しと,運行が再開された新幹線の切符の購入とで,特に午前中であったこともあり,多くの人が集まっていたのだと思う.一方で在来線は運転再開の見通しが立たず,この日は当然運行もない.改札口は閉まるどころか,バリケードで閉ざされていた.
▼広島駅コンコースの様子(7月7日)
広島駅を出て,すぐ近くのコンビニに向かう.商品棚はガラリとしていた.不思議なのは,おにぎりは揃っているものの,麺類やお弁当,パン類はない状態であった.物流ルートや,製造工場の場所の違いだろうか.広島で揃うものは整っていて,遠方で高速道路を使った配送が必要な商品は滞っているのかもしれない.
不謹慎であるが,この写真を撮ったときには,こういうことも起こっている,というのを報告書に書いたり,どこかで後日発表したりするのかな,という感覚ぐらいしかなかった.
▼コンビニのお弁当は空っぽに.パンもなく.
交通拠点の混乱状況はこれで何となくわかった.もう1箇所見ておきたい場所があり,車で移動した.線路より南にある施設に向かうため,広島駅近くの開かずの踏切(愛宕踏切)を通ろうとすると,踏切に引っかかってしまった.Red Wing(広島地区の在来線の車両)が車庫に回送されていた.この様子を見て,在来線の復帰はそう遠くない時期なのかも,と思った.
そして向かった先は,マツダスタジアムであった.正しくは,マツダスタジアムを部分的に眺めることができる,コストコの駐車場の屋上階である.余談であるが,コストコの駐車場の屋上階は,マツダスタジアムで広島カープの試合がある際に公式な「駐車場」として駐車券が販売されている.そして,この駐車場から球場にダイレクトに入ることができる.(専用のゲートがある)
当日は野球もないため,球場に立ち入ることはできないが,一部分だけここから眺めることはできた.この雨で球場がどうなっているだろうかが心配であったが,球場はダメージを受けていなさそうであった.マツダスタジアムの地下は,雨水の貯留地(大州雨水貯留池)となっており,この辺り一体の雨を受け止めているのである.ただ,球場周辺の道路は,マンホールが浮いていたりしていたところもあった.
▼コストコ駐車場からマツダスタジアムを眺める
そしてそのままコストコへ.フードコートを見ると,パン関係の商品が販売停止となっていた.主食にお米とパンを食べる,というのは,災害時にはレジリエントなのかもしれない.
ただ,この商品の欠品ぶりは,この後に物品不足を招くような気がした.コストコで水と炭酸水を買い,そして,明日以降の平日での現地調査に備えて,ヘルメット,カッパ,長靴と蛍光チョッキ,万が一の断水に備え,ポリタンクを自宅近くのホームセンターで買っておいた.
この調査の移動中,当時東京に出向していた同僚の先生とやりとりをしていた.土や岩盤などを専門とする土質工学の先生である.東京から戻ってこられていた.その先生のお住まいは呉である.
実は調査で広島港に向かった一番の理由は,広島駅で先生をピックアップし,広島港へ送るのと(航路では呉にいけた.車は順番待ちだが,人は乗れた),その移動時間で,今後とるべき作戦の打ち合わせを,移動の車の中でしたかったためである.
土木にはさまざまな分野があるが,土砂・洪水災害が発生した際には,河川工学や土質工学の先生方は,実態把握や原因究明のため,真っ先に「専門家」として現場に駆け付けられる.これはかつて所属していた,建設コンサルタント(設計)業界も同様である.河川や測量などの部門のエンジニアは,行政や学会の要請に応じて現地に早い段階から入られる.社会人となり何年も経験を積む中で,何度も国内各地の自然災害が発生しながらも,すぐに現場に向かい貢献される河川や土質工学のエンジニアの方々の様子を見ていて,一方で,交通を専門にするエンジニアには出番はない.これが自分にとって悔しく,情けなく,「交通やまちづくりの専門家を名乗りつつ,実は貢献できていないのかも」という戸惑い,無力感を持ち続けていた.後述しようと思うが,2011年に発生した東日本大震災のときには,それを痛感する事象がたくさんあった.ただ,民間の専門家か,学術機関に所属する専門家か,という違いもあったかもしれない.
そうした中で,身近に起こったこの災害で,これまでと同じ後悔は絶対にしない,という覚悟はあった.そのために,災害対応の面では経験の多い土質工学を専門にし,そして,この災害で東京からすぐに戻ってこられたその先生に自分の考えを話し,作戦を固めたことは大変意味のあることだった.後で振り返ると,この先生が戻ってこなければ,と思うことがある.
その中で決めた方針が,下図である.広島港に送り届けたのが午前中.その後自宅に一度帰り,所属組織の責任者である当時の校長にメールを送り,了解を得た.そしてこの方針で動くことを同じ学科の先生にアナウンスした.メールで学科の先生に送り,何人もの先生から了解の返答を得たのは,心強かった.
▼西日本豪雨に対する,学科の教員で共有した活動方針
夕方になると,広島呉道路とJRが土砂崩れで通れなくなっている”模様”との連絡が入った.ただ,この時は,よくある規模の土砂崩れであろう,ぐらいしか認識がなかった.一方で,広島から呉まで国道31号,東広島呉道路が通行止で行けない状況であるながらも,広島熊野道路を経由して呉までアクセスできるようだとの情報も届いた.ただ,交通情報を見ると,広島熊野道路が日中,大渋滞を起こしていた.Google Mapを見ても,確かに酷い渋滞が発生していた.渋滞が消えたのが夜10時ぐらい.そのタイミングを待って,広島の自宅から職場のある呉まで向かった.渋滞することなく到着はできた.行った先で,自宅が断水している,と言っていた同僚の先生に,日中に購入した水と炭酸水とインスタント麺,水を満杯にしたポリタンクを届けた.そして,行った先の光景には衝撃を受けた.職場のすぐ近くのアンダーパスには,冠水して動けなくなってしまったままのトラックが,そのまま残されたままであった.
研究室に立ち寄り,必要な荷物を持って,そして,その衝撃的な光景にもショックを受け,広島に戻った.