音のない会話を体験して
音のない会話をしたことがあるだろうか。といっても、もちろんある人がほとんどだと思う。LINEやメール、SNSやチャット、手紙もそのひとつに加えてもいいだろう。いわゆるテキストコミュニケーションと呼ばれるもので、人類の会話の手段として確立している。しかし、今回自分が今まで体験したことのない「音のない会話」をしたので、そのことを備忘録として残しておこうと思う。
最近デフエンジニアの会というろう者難聴者のエンジニアの方々のコミュニティがあり、自分は聴者なのだけど参加させてもらっている。普段はLINEのグループでやりとりをされていて、そのグループに入っている。この会ではよく交流会や勉強会が企画されZoomをつかって開催されるんだけど、つい先日「エキマトペ勉強・交流会」という企画で方山れいこさんを招いてお話を聞く会が催され、参加した。
お話を「聞く」のではなく「見る」または「読む」
デフエンジニアの会なわけで、参加者の多くはろう者難聴者。こういった場合に活躍するのは音声認識ソフトだ。方山さんは聴者で話は声に出して話すので、今回YYProbeというソフトを使って声をテキスト化し、リアルタイムにスクリーンに表示させて、参加者に伝わるように話を始めた。
音声認識ソフトを使ったイベントへの参加はもちろん経験があるので、特に驚くことはなく、当然使うものだと思っていたし、その方法になんの疑いもなく参加していたのだけど…。
なんかおかしい…。あ、音が出てない…。
方山さんがミュートのままになっている。でもそれについて誰も気にしていないし、話はそのまま円滑に進んでいる。「あ〜、これは、言ったほうがいいのか?お願いしたほうがいいのか?」「いや、これがこの会の方針って可能性もあるぞ?」「聴者は自分だけじゃないみたいだし、気にしてるの自分だけか??」と変な気を使いだし、わりと環境をすぐに受け入れるタイプの性格なので「ま、いいか。音声認識のテキスト読めるわけだし、このまま聞いてみよう、もとい、見てみよう読んでみよう」とそのまま従うことにした。
選択肢がないつらさ
と、状況を受け入れたのものの、だんだんと話を「見る」というのがしんどくなってくる。理由はいくつかある。
まずは、よそ見ができない。よそ見をすると音声認識されたテキストが流れていってしまう。アプリ経由でテキストを提供されているわけでなく、Zoomの共有されている画面にのみテキストが存在するので、自分でスクロールして戻って自由に読み直したりができない。
そして考え事をするときによく視線を左右に移動させる癖があるんだけど、それを封じられてしまう。視線を変えられないだけなのに、思考もうまくできなくて、癖というか、自分の性質に焦る。
映画館で日本語字幕の映画を観るときくらいの集中力を要求されてる。できないわけじゃないんだけど、想定と覚悟がない状態でそれを要求されるのは結構つらい。そもそも映画の字幕は完成版なので何の疑いもなく読むことができるけど、音声認識は徐々にテキストを出力したり、また誤認識からの誤字だったりが時々あるので、ある程度予測したり変換完了を待つ微妙なタイミングのズレがスムーズな内容の理解を妨げてしまう。この予測行動は今までイベントで何度か音声認識ソフトを使ったり読んだり編集したりを経験したことがあったからできたのかもしれない。経験がなければパニック状態になり、何一つとして理解できなかったかもしれない。
普段、映画以外でも音声を切って字幕だけで動画配信サービスなどの映像を見たりすることはある。でもそれは自分が自由にいつでもやろうと思えば音声を出せる状況であえて音声を切っているのだから、特にストレスはない(※)。自分が選んだ選択だからだ。でも今回は違う。自分の手元で自由にミュートを解除できる状態ではない。「話を遮ってしまってすみません、音声を出してもらえませんか?」と伝えない限り、この状況を変えることはできないのだ。
※自由に音声を出せないシーンだったら同様にストレスがたまると思う。アーカイブなし、追っかけ再生不可能のライブで音声が聞けない時は、いくら字幕があったとしても、見逃し読み逃しにハラハラしながら全集中で見ることになると思う。終わったときにはヘロヘロじゃないかな。
試して得た学び
今回のこの話は方山さんや主催のみなさんに文句をつけているわけではないことはご理解いただきたい。最初に言ったとおり気づいた時点で「このままで見てみよう」思ったのは自分の判断だし、これは自分自身でやりはじめた勝手な実験だ。方山さんのお話に興味があって、実際に内容は面白かったし学ぶこともたくさんあった。一方でなかなか体験できないシーンに遭遇できたことにも感謝している。こういう出逢ったことがない経験では、自分がどういう感情になるのか、どう振る舞おうとするのかを観察しようとしてしまう。自分でも困った性格だと思う。
しかし、やっぱり、学びが多かった。聴者である自分の現在の能力ではただただ慣れないものだったということ。ろう者難聴者がそこにどれだけの集中力を使って見ていて、且つそれを通常運転で行っているということ。
これはリスペクトはある一方で、能力の優劣の問題だとは考えていない。自分は仕事柄スクリーンリーダーを使うことが多いが、普段遣いしている人まではいかないけど、結構な速さの読み上げを聞き取ることができる。おそらく初めてスクリーンリーダーを使った人では聞き取れない速度では使っていると思う。ただ、これはほとんどが慣れの問題だと思っていて、使っていたらそのうち時間が惜しくなるので自然と早くせざるを得なくなり、耳もそれに慣れて聞き取れるようになる。あえて「何かが優れている」的な話をすれば、それは人類の環境適応能力は素晴らしいということだ。
ただ、ここで今後気をつけたいと思ったのは、ろう者難聴者の方から視線を奪う何かの行為というのは、聴者の想像以上の邪魔になるのだろうということだ。字幕にしたってそうだし、手話にしたってそうだし、一瞬でもふと視線を逸らされるだけでも情報を遮断されるのと変らないのだろう。
視覚障害当事者の方々のお話を多く聞いてきた経験から、自分は視覚優位でいかに視覚に頼って生きてきたのかなどと考えていたけど、今回改めて、十分に聴覚にも頼ってきたことを痛感させられた。どちらに優位があるとか、そういうのはない。人は知覚できるものは無自覚的に最大限活用して生きているだけなのだ。
自分は現代社会において事実上の特権を持つ側の人間で、こうやって「実験」をすること自体も見た方によっては贅沢な行動かもしれない。けれど、それでも、それこそ自分の今持つ能力を自覚的に最大限活用していきたいと思ってきたし、今回のこの経験でも改めてそう思う。自分にしかできないことをやる。それを積み重ねていきたい。その活用する先にあるものが、自分以外の誰か、そして願わくばより多く広く、良い結果につながればいいなと思っている。