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イベントにおける属性の表明を考える

この記事で扱う問題は未解決です。ただの悩み共有なので悪しからず。


イベントにおいて参加者同士の出会いや交流というのは、それそのものが目的だったり、もしくは副次的な目的だったりする。なので、いかにその交流を心地よくトラブルなく過ごしてもらうことは、イベント運営における重要なポイントだと考えている。

昨今の参加者の「表明」を促す取り組み

海外のイベントではPronouns Badgesといったもので性自認を表明することが多くなってきているらしい。SNSのプロフィールにもしばし見られる「he/him」とか「she/her」とか「they/them」とか、そういったものだ。ネームプレートやバッジに記載して、相手にどう認知してほしいのかを表明する。

他に、交流を円滑に行うために「ゆっくりと交流したい」とか「 積極的に交流したい」とか「話しかけてね」とか「話しかけないでね」とか、そういった表明ができる仕組みを設けているイベントもある。日本でもいくつかのイベントで採用されることがあるらしい。

実に面白い取り組みだと思うと同時に、今まで何かしらのトラブルや参加者の不満から始まったものだろうと想像する。人間同士のトラブルのほとんどは相手への不理解や誤解だ。相手がどういう属性をもってどういう考えを持っていて、どういう目的で参加しているのかを、あらかじめわかった状態で交流するのは、トラブルを未然に防ぐのに一役買っていることは間違いないのだろう。

また、性自認なんかは多様性の尊重を促す効果もあり「この交流の場はどのような性自認でも受け入れます」「みんなが受け入れてこの場をつくります」といった共通認識をつくることになり、さらにこういった取り組みが、社会全体に広がっていくことで普段の生活においても多様性を尊重するのが当たり前になる文化や習慣のきっかけになることを狙っているのだろう。

表明のデメリット

しかし、いざ自分の運営するイベントに照らし合わせたときに、いくつかの疑問が出てくる。「性自認を表明することがイベントの交流に何か関係があるのか?」ということだ。

これは日本語文化圏の人間だから思う疑問かもしれない。日本語では、会話において代名詞(彼・彼女など)を使って会話することは、あまり無いように思う。相手が目の前にいる場合は特にそうだ。ネームプレートがあれば、その名前で呼ぶ。いくつかの言語では性の格変化があり、相手の性で動詞や形容詞が変わるので、特にそれがあるラテン語系統の言語が使われるヨーロッパで性自認の表明が会話に影響を与えることは理解できるが、日本語ではそれがないので、性自認を表明されたところであまり会話には影響しない。

逆に性自認を表明することによるデメリットの方を心配してしまう。一番の問題は自らアウティングをすることになることだ。性自認は参加者にとっては非常にセンシティブなものだと思うし、表明をしたくない人もいる可能性は十分にある。まだ日本でもジェンダーに関する偏見はあるので、表明することのデメリットは想像よりも多い気がしている。あとは嘘の表明で相手に近づいて性加害なんてあったらイベント運営側としては最悪だ。考えすぎかもしれないけど、あってもらっちゃ困ることは事前に避けたいのが本音だ。

表明しないことは「【表明しない】を表明すること」になる

でも表明することは任意だよね?表明しなければいいじゃん。と結論付けることはできるのだけど、そこはもうちょっと掘り下げて考えてみたい。

イベント側がネームプレートにPronounsのプレースホルダーを設けたとしよう。任意だったとしても、そこが空欄になっていたら「私は性自認を秘匿します」を表明することになる。そこで発生しうるのが、それを見た別の参加者の受け取り方だ。「そうなんだ」「空欄なんだ」と事実だけ受け取ってくれる参加者は問題ない。しかし「なんで書かないんだろう?」に始まって「後ろめたいことがあるから書かないの?」とか「書かないってことはそういうことなんですね」と認識されてたり、「表明することで多様性を認めていく社会を作ることに貢献するのだから表明するべきだ、せっかくイベント側が準備しているのに、あなたの行為は間違っている」とか、なんかそういう、極端な思想や邪推をする参加者が現れるかもしれない。また、嘘書いとけばいいだろう意見も早計で、その嘘を書くことで悩んできたのがジェンダーマイノリティの人たちなので、そんなことはさせられない。

考えすぎかもしれないし、参加者のことを悪者にし過ぎでは?と思われるかもしれないが、悪者にしたいわけでは決してなくて、性善説でイベントを設計しても大丈夫だろうか?という思考実験の中で話なのはご容赦いただきたい。

いろんな人を想定はしておきたい

性自認だけでなく、会話のペースや積極的か消極的かの表明もそうだ。これは性格の表明でもある。「コミュ障」みたいな言葉で自虐的にネタにできる人もいるのは知っているが、本当にマジで自分の性格を表明することを嫌がる人もいるかもしれない。そんなこといったら交流会なんかやってられないだろうという意見も、自分の中では持ち合わせた上で考えている。でも、いるかもしれない以上、検討したいのだ。

最低限をどこに設定するかという話でもある。「これは交流会なので、コミュ障は知りません、ちゃんと自分でコミュケーションとってください」という設定もあっていいと思う。困っている人が多数を占めているから「苦手な人でも交流できるように自分の性格を表明してください、表明できない人は知りません」というイベントがあっていい。ただ、自分の運営するイベントでは表明できない人も参加できる工夫はないだろうか?と頭を捻っているところだ。

性善説で取り組んでいいものか

目に見える属性でレッテルを貼られて困ってきた人を知っているし、そういったトラブルがあることも事実。表明は今まで見えてこなかったことを「見える化」することでもあるので、「見える属性のレッテル」が新しく発生するのは当然、それは新しいトラブルや問題が生まれることも意味している。

そもそもそういったレッテルを貼る側に問題があるので、そういった人を参加させないように工夫したほうがいいかもしれない。そのひとつは行動規範だったりする。「このイベントの参加者に、あなたをそういった目では見ません」「そんな人はこの場にいないので安心してください」という宣言であるのだけど、果たして、参加者みんなが信じてくれるだろうか。

運営が信じなかったら参加者は信じてくれないかもしれないね―――と、天の声が聞こえてきてしまった。悔しい。

どうしたらいいだろう。実際のイベントでは、どこか落とし所を見つけて実施すると思うけど、この悩みは一生解決しないし、時代とともに状況も変わるし、悩み続けなければいけないことなんだろう。もし、一緒に悩んでくれる人がいたら、ご意見をください。一緒に考えましょう。

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