れいわ新選組を見て感じた戸惑い
少し遅くなってしまったけれども、先週の参議院選挙について。
投票率は48.8%と低かったが、N国が一議席獲得したことと同様に、れいわ新撰組が二議席獲得したことが話題となった。
それらの現象をポピュリズムとしての馬鹿にすることは簡単だし、その危険性も、色々なところで語られている通りだと思う。けれども、そこから学ぶべきことはあると僕は思っている。
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色々な所で書いてきたように、僕は長らく「発達障害」や「虐待」、「ひきこもり」といった社会課題の当事者だった。一方で、今はアルバイト含めて200名以上の社員を抱える会社の経営者でもある(詳しくは、「暗闇でも走る 発達障害・うつ・ひきこもりだった僕が不登校・中退者の進学塾をつくった理由 」(講談社))。
だから、僕自身は「経営者」として市場原理主義に共感する気持ちもある一方で、当事者として苦しんできた時間の方が長いこともあって、やはりリベラル寄りの政治思想を持っている。
そんな僕でも、れいわ新撰組の演説を聞いたとき、障害者に関する政策を除いては、あまり共感はできないと思った。ただ、心を打った。だからとても戸惑った。
重度障碍者の方を特定枠に入れた。その他の候補者も、多くが社会問題の当事者だった。
それは、リベラルな政党が「元芸能人」を出馬させたり、「筑駒→東大」をアピールするポスターを掲示したりする姿とは、対照的なように見えた。掲げたビジョンと行動が、一貫していた。
山本太郎氏の演説も心に響く。
「苦しさの原因は何か。生産性で人間をはかるっていうこと。生産性でなんか人間の価値はかれるかよって。じゃあ何ではかるんだって。存在ですよ。存在しているだけでも、『ありがとう』っていうような世の中作ろうじゃないかってことですよ。存在してるだけで価値があるっていう社会を作れるのが政治。そのために税金払ってるっていうような政治を作っていきましょうよ。」
演説を聞いていたら、僕自身もこれまでの苦しかった記憶が走馬灯のようによみがえってきた。発達障害で学校や会社になじめなかったこと、12歳で親元を離れ自分の存在している意味に悩み続けたこと。
「この人は、自分の苦しみを代弁してくれる」そう思った当事者の気持ちをポピュリズムと呼ぶなら、その通りだと思う。
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「れいわ新選組を支持する人」を、批判する人も多かった。賢い人であればあるほど、ポピュリズムを馬鹿にしがちな気がする。
その時に思い出すのは、3年前のアメリカ大統領選挙だ。あるパーティの席で、ヒラリーはトランプ支持者のことをこう馬鹿にした。
「おおざっぱに行ってしまえば、トランプ支持者の半分は、私が「みじめなバスケット」と呼ぶ場所に入れることができます」。
トランプ支持者からは、クリントンが惨めな自分たちをマンハッタンの金持ちの前で笑いものにした、と受け止められた。
引用元:金成隆一(2017年)『ルポ トランプ王国』岩波書店(P.109)
トランプの支持者同士が「あんだも惨めだな」とビールを飲みながら言い合う分には笑い話で済む。・・・(中略)・・・誰もがうらやむキャリアを積み、常にスポットライトを浴び続けた人間には、庶民の気持ちなど分からない。クリントンへの、そんな憤りが蔓延していた。
引用元:金成隆一(2017年)『ルポ トランプ王国』岩波書店(P.108)
トランプというポピュリズムも、「賢い人たちが、自分たちの苦しみを代弁してくれてはいない」という感情から生まれたものだった。
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人は正しさやロジックでは動かない。苦しみやコンプレックス、執着。そういったものに、人の行動は左右される。
それは、僕自身が経営者として学んできたことでもある。どんな正しい経営戦略であっても、そのプロセスを無視したら人は動かない。共感できるビジョン、ビジョンと一貫性のある事業内容、そして日々の丁寧なコミュニケーション。
そういったものがそろって初めて、正しい経営戦略が実行可能となる。人間は感情に左右される生き物だからだ。
れいわの政策に共感できないところも多かった一方で、大きなビジョン、ビジョンからぶれない選挙活動、有権者との丁寧なコミュニケーションがあった。様々な社会課題の当事者であった僕は、そこに共感し、一方で政策には共感しきれないことに戸惑った。
それをポピュリズムとして嘲笑することは簡単だけれども、学ぶことも多いように思う。そんなことを考えさせられた今回の選挙だった。
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