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五十瓊敷入彦命と伊奈波神社

岐阜の三社

岐阜市内に鎮座する伊奈波神社、金神社、橿森神社の三社。
ここには五十瓊敷入彦命イニシキイリヒコノミコトとその家族が祀られています。
五十瓊敷入彦命とその家族を祀るのは、おそらく全国でも、岐阜の神社だけと思われます。

伊奈波神社

主祭神は五十瓊敷入彦命。垂仁天皇の皇子で、景行天皇の兄になります。社伝によると、五十瓊敷入彦は朝廷の命により奥州を平定しますが、成功を妬んだ陸奥守豊益の讒言により、朝敵とされてこの地で討たれたとされます。

伊奈波神社

五十瓊敷入彦命

五十瓊敷入彦命は、古事記では印色入日子命イニシキノイリヒコといい、河内で多くの池を作って農業振興を図り、また剣千本を石上神宮へ奉納します。

印色入日子命は、血沼池を作り、また狭山池を作り、また日下の高津池と作りたまひき。また鳥取の河上宮に坐して、横刀壱仟口を作らしめ、これを石上神宮に納め奉り

古事記

意訳:印色入日子命イニシキノイリヒコは、血沼池と狭山池と日下の高津池を作りました。また鳥取の河上宮で、刀を千本をつくり、石上神宮に奉納しました。

石上神宮(奈良県天理市)

日本書紀では、垂仁天皇の皇太子選びの際に、五十瓊敷命の話が出てきます。

詔五十瓊敷命、大足彦尊曰「汝等、各言情願之物也」兄王諮「欲得弓矢」弟王諮「欲得皇位」
於是、天皇詔之曰「各宜隨情」則弓矢賜五十瓊敷命、仍詔大足彦尊曰「汝必繼朕位」

日本書紀

意訳:天皇は、五十瓊敷命と大足彦尊オオタラシヒコノミコト(後の景行天皇)に「お前たち、それぞれ欲しいものを言え」と問いました。兄(五十瓊敷命)は「弓矢を得たい」、弟(大足彦尊)は「皇位を得たい」と答えました。
天皇は「それぞれの心のままにすべし」と言い、すぐに弓矢を五十瓊敷命に与え、大足彦尊には「お前は、必ず皇位を継げ」と言いました。

*その後、五十瓊敷命は垂仁天皇に石上神宮の宝物管理を任されます。そして年老いたので、妹の大中姫オオナカツヒメに管理を託しますが、「私はか弱い女なので」と断り、その役目を物部氏に託します。


金神社

同じく岐阜市内にある金神社は、五十瓊敷入彦命の妻、渟熨斗姫命ヌノシヒメノミコトを主祭神としています。社伝によると、渟熨斗姫命は夫の御霊を慰めるためこの地に生涯留まり、私財で土地を開拓した事から「金大神」として祀られたとされます。

金神社

渟熨斗姫命

日本書紀には、母親である八坂入媛ヤサカイリビメと景行天皇の話が出てきます。

天皇幸美濃。左右奏言之「茲国有佳人曰弟媛、容姿端正、八坂入彦皇子之女也」天皇、欲得爲妃、幸弟媛之家。(中略)「唯有妾姉、名曰八坂入媛、容姿麗美、志亦貞潔。宜納後宮」
天皇聽之、仍喚八坂入媛爲妃。生七男六女(中略)第六曰渟熨斗皇女

日本書紀

意訳:(景行)天皇は美濃に行きました。側近は「この国に、八坂入彦皇子の娘で弟媛オトヒメという美人がいます」と言いました。天皇は、妃にしたいと家を尋ねます。ですが弟媛は「私には八坂入媛という、優しく美しい姉がいるので、彼女を後宮に入れてください」と言いました。
それを聞いた天皇は、八坂入媛を呼び寄せて妃としました。7人の男の子と6人の女の子を生み、第6子は渟熨斗皇女でした。

*ちなみに景行天皇には80人の御子がおり、皇子は全て諸国の役人に任命されたと記されます。


橿森神社

橿森神社の主祭神は、五十瓊敷入彦命と渟熨斗姫命の子である市隼雄命いちはやおのみことです。墳墓は各務原市にあります。

橿森神社

市隼雄命の名は、記紀には登場しませんが、橿森神社は、景行天皇の時代に創建されたとあります。

御祭神は市隼雄命(伊奈波神社御祭神、五十瓊敷入彦命の皇子)で、創建は第十二代景行天皇の御代である

岐阜県神社庁

市隼雄命

各務原市にある市隼雄命墳墓の説明には「市隼雄命は開化天皇の皇子、日子坐王ヒコイマスミコの系譜」とされています。古事記には、その系譜が記されています。

凡そ日子坐王の子、并せて十一王なり(中略)次に神大根王は、三野国の本巣国造、長幡部連の祖なり

古事記

意訳:日子坐王の子は、11人の王です。神大根王は、三野(美濃)国の本巣(岐阜県の郡)国造、長幡部連の祖先です。

*日子坐王は、岐阜市にある伊波乃西神社の主祭神です。また子の神大根カムオオネ王は美濃国造の祖とされるので、岐阜と関係が深い一族のようです。

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