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スサノオのオロチ退治

日本神話で有名なスサノオの「ヤマタノオロチ退治」です。古事記に書かれた話を追いながら、神話の舞台や関係する神社を探ります。


出雲に降り立つスサノオ

故、避追はえて、出雲国の肥の河上、名は鳥髪といふ地に降りたまひき。(中略)老夫と老女の二人在りて、童女を中に置きて泣けり。

古事記

意訳:天界を追放されたスサノオは、出雲の「肥の河」の上流、鳥髪に降り立ちます。そして、泣いて悲しむ老夫婦と娘に会います。

*「肥の河」は島根県を流れる「斐伊川」です。関東に数多くある氷川神社の名は、この川に由来するとも言われています。

島根県を流れる「斐伊川」

「僕は国つ神、大山津見神の子ぞ。僕が名は足名椎と謂ひ、妻の名は手名椎と謂ひ、女の名は櫛名田比売と謂ふ。」とまをしき。亦「汝が哭く由は何ぞ。」と問ひたまへば、答へ白言しけらく、「我が女は、本より八椎女在りしを、是の高志の八俣の遠呂智、年毎に来て喫へり。今其が来べき時なり。故、泣く。」とまをしき。

古事記

意訳:老夫婦の夫は大山津見オオヤマツミの子で足名椎アシナヅチ、妻は手名椎テナヅチ、娘の名は櫛名田比売クシナダヒメいう名でした。泣いている理由を聞くと「娘が8人いたが、毎年来る八岐大蛇に食べられてしまった。そして、今まさに大蛇が来るので泣いていました」と言います。

*大山津見はイザナギとイザナミの子で、日本全域の山の神です。また酒の神でもあります。


爾に「其の形は如何。」と問ひたまへば、答へ白しけらく、「彼の目は赤加賀智の如くして、身一つに八頭八尾有り。

古事記

意訳:オロチの特徴について聞くスサノオ。「その目は赤加賀智(ホオズキ)のように赤く、体がひとつで、頭が八つ、尻尾が八つある」と答えます。


「是の汝が女をば吾に奉らむや。」とのりたまひしに、「恐けれども御名を覚らず。」と答へ白しき。爾に答へ詔りたまひけらく、「吾は天照大御神の伊呂勢なり。故今、天より降り坐しつ。」とのりたまひき。(中略)「然坐さば恐し。立奉らむ。」と白しき。

古事記

意訳:スサノオは、アシナヅチに娘を嫁にもらえないかと提案します。すると「あなたは誰なのか」と尋ねられ「私はアマテラスの弟で、天から降りてきたのだ」と答えます。それを聞いてアシナヅチは「恐れ多いことです」と承諾します。

*縁結びで有名な川越氷川神社は、スサノオとクシナダヒメ、アシナヅチとテナヅチと、それぞれの夫婦を主祭神としています。

川越氷川神社(埼玉県川越市)

爾に速須佐之男命、乃ち湯津爪櫛に其の童女を取り成して、御美豆良に刺して、其の足名椎手名椎神に告りたまひけらく、「汝等は、八塩折の酒を醸み、亦垣を作り廻し、その垣に八門を作り、門毎に八佐受岐を結ひ、其の佐受岐毎に酒船を置きて、船毎に其の八塩折の酒を盛りて待ちてよ。」とのりたまひき。

古事記

意訳:すると、スサノオはクシナダの姿を櫛に変え髪に刺しました。そしてアシナヅチに「強い酒を醸造し、垣を作って8つの入り口を作り、棚を設けて桶を置き、酒を盛って待つように」と言いました。

*八重垣神社の境内にある「鏡の池」は、クシナダヒメがオロチから隠れていた際に、飲み水にしたり鏡の代わりに姿を写した「鏡の池」の伝説があります。

八重垣神社(島根県松江市)
八重垣神社の「鏡の池」

スサノオのオロチ退治

故、告りたまひし随に、如此設け備へて待ちし時、其の八俣遠呂智、信に言ひしが如来つ。乃ち船毎に己が頭を垂入れて、其の酒を飲みき。是に飲み酔ひて留まり伏し寝き。

古事記

意訳:そうして準備をしていると、ヤマタノオロチがやって来ました。頭を酒桶に突っ込み、酒を飲み干し、酔っ払いってその場に眠ってしまいました。

*島根県雲南市の斐伊川にある「天が淵」は、ヤマタノオロチが住んでいた場所とされています。

斐伊川にある「天か淵」(島根県雲南市)

爾に速須佐之男命、其の御佩しませる十拳剣を抜きて、其の蛇を切り散りたまひしかば、肥河血に変りて流れき。
故、其の中の尾を切りたまひし時、御刀の刃毀けき。爾に怪しと思ほして、御刀の前以ちて刺し割きて見たまへば、都牟羽の大刀在り。故、此の大刀を取りて、異しき物と思ほして、天照大御神に白し上げたまひき。是は草那芸の大刀なり。

古事記

意訳:スサノオは十拳剣(握り拳が十個分の意)を抜いて、蛇を切り刻むと、肥河が血で染まりました。
尾を切ると剣の刃が欠けたので、怪しいと思い見てみると「都牟羽の大刀」がありました。この太刀を取ると、尋常ならざる刀だと思いアマテラスに献上しました。これは草薙の大刀でした。

*草薙剣は後に、倭姫から倭建命に授けられます。火攻め際に、その剣で草を刈って難を逃れているので「都牟羽ツムハの大刀」は、草を刈り取るような収穫用の刀だと言われています。


清々しいスサノオ

故是を以ちて其の速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまひき。爾に須賀の地に至り坐して詔りたまひけらく、「吾此地に来て、我が御心須賀須賀斯。」とのりたまひて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀を云ふ。

古事記

意訳:そんな事があり、スサノオは宮を造るための土地を、出雲で探します。須賀の地にたどり着き「この土地に来て、なんと私の心は清々しいのだろうか」と、この地に宮を築きました。今では、その地を須賀と言います。

須賀すがなので清々すがすがしい、という事です。
島根県雲南市には、スサノオが宮を築いたとされる「日本初之宮」を称する須我神社があります。

須我神社(島根県雲南市)

この大神、初めて須賀の宮を作りたまひし時、其地より雲立ち騰りき。爾に御歌を作みたまひき。其の歌は、
  八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

古事記

意訳:スサノオが須賀の宮を築き、その地より雲が立ち上ったので、歌を作りました。
雲が湧き上がっていく 幾重の垣を出雲に築き妻を籠らせて 垣を重ね作る その八重の垣よ

*これが日本で最初に詠まれた和歌として、先ほどの須我神社には「和歌発祥の地」の碑があります。

和歌発祥の碑(須賀神社)

出雲国風土記 飯石郡には、「スサノオが『この国は小さいが良い国だから、私の名前は木や石には付けない』と言い、この地を『須佐』と名付け、自らの御魂を鎮めた」と記されており、その地には須佐神社が鎮座しています。

須佐神社 拝殿(島根県出雲市)

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