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道具を人のように扱うと尊敬されるが、人を道具のように扱うと罵倒される(だろう)

なぜだろうか。まず、なぜだろうかと問いかけている時点で炎上するのではないかと怯えているが、そもそも炎上させられるほど人に見られちゃいない。

前提に、人と道具の関係性や道具への向き合い方にあるはずである。
結論だけ書くと世間一般の道具のポジションが低すぎるだけだが、自分の身の回りのものは大事にすれば良いと思う。一つ一つこだわって、大事にすれば良いと思う。それができないから、道具は道具であって、数あるうちの一つにしかならない。

だったら、もっとものを減らして、大事にできる範囲のものしか身の回りに置かないようにするのが良い。
家具にしたって、靴にしたって、時計にしたって、大事なものを決めて、自分の友人のように付き合うのがよいのではと思う。自分がされて嬉しいことをする。されて嫌なことはしない。それが仮に白洲次郎のようにツイードを買ったら3年干したり雨ざらしにしてから着るのが流儀であれば、それはそうなのだと思う。これもプリンシプル。

ブランドは自分が好きなとこを買えば良いし、新品か古着か中古か、自分で好きなようにすれば良いと思う。
それよりも、その道具に惚れて、どれだけ一緒にいられるかである。だからこそ、ものを買う時はゴミになるのではなく、ヴィンテージになるようなものを買いたい。

20歳の成人祝いにおばあちゃんから買ってもらったステンカラーコートは、何度も修理を重ねて今も現役である。新しく1着コートを買おうと毎年思うが、これを越えるコートに出会わない。出会ったとしても、このコートは着続けると思う。

最近のものは便利になりすぎていて、不便の良さがないような気がする。機能が一つしかないものの有難みというか、それにはそれの専門性を発揮させるからこそ、輝ける。人間もそうなのでは?と思う。専門外のことを求められても頑張ってやろうとはするが、上手くいかないときだってある。専門外のことを人に任せるときは、専門外のことを任せている認識を持って仕事するのがよさそう。

みんなと同じで構わねえってのァ、恥の上にも下衆。
という言葉があるように、みんなやっているから、みんな持っているから。といった理由でものを選ぶのではなく、それは自分の意思でもって考えていきたい。

どうせ人生の中で大事なものなんて多くないのだから、一つ一つ自分が好き
なものを選んで大切に残していこうと思っている。こうして育ったものは、銭金ではかるのがおこがましいほど、魅力的なはずである。

2人のおじいちゃんはきっと、こんなことを考えてたんだと思う。

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