誰が踏みつけられているか。
※こちらの記事はmediumへ転載することに致しました。
今後の記事についてもmediumにてポスト致します。
以下URLから記事を読んで頂けましたら幸いです。
2021.11.11追記 スガナミユウ
https://link.medium.com/V4tAz8IG5kb
衆議院選挙が終わりましたね。
選挙の結果の受け止めは別の機会に回して、
今回は、選挙期間に市民運動を行う中で感じたことを書こうと思います。
今回の選挙で私は様々な活動に参加しました。
・主要政党に19項目67の質問を送り回答を公開した、『みんなの未来を選ぶためのチェックリスト』
・投票日前日に行った、
『みんなの未来を選ぶ投票マーチ #投票マーチ1030』
・市民と政治家による3つの街宣、
『未来を選ぶための市民街宣1016』
『未来を変えるための市民と野党党首街宣1023』
『VoteForWomen1027 #女性の声が政治を変える』
他にも、SaveOurSpaceで行った文化芸術分野の公開質問状や、
WeNeedCultureで行った与野党4党の議員を各回で招いた配信番組にも取り組みました。
今回、運動を通じて沢山の女性と活動を共にしました。
そのことについて書こうと思います。
先日、私は、Twitterにてこんな投稿をしました。
『おじさん』や『女性』と太字でまとめていること、それを乱暴な物言いだと感じた方もいるかと思います。
勢いで呟いたので、様々配慮に欠けたツイートであったと振り返っていますが、
それだけ私が今回体験したことは自分の中で大きなことでした。
投稿の中の、
『おじさん』というのは、具体的には、
この国が男性主体の社会構造だということへの自覚の無いシスジェンダー男性を指しています。
シスジェンダー男性が生きやすい現状の社会の中で、その前提を無視して、女性や他の立場の人に対して、あたかも既に平等が実現しているかのように振る舞い、同じ目線で話そうとする人を指しています。
投稿の中の、
「(自分がおじさんなので)」という言葉は、自分自身が40歳のシスジェンダー男性で、しかも生まれながら日本国籍であり、マジョリティかつそういった特権的な立場で生きていることへの自覚の足りなさ、そのバックボーンからくる後ろめたさを指しています
(キューってなるとか、後ろめたいとか、そんなことを言っている場合ではないのでnoteを書いています)。
投稿では『女性』という言葉をあえて使いましたが、トランスジェンダーなど様々なセクシャリティを持つ方たちにとってもまた、とても生きづらい世の中であり、同等に重要な問題であると考えています。
この後の文章でも、男性と女性という言葉を用いていきますが、今回の体験の特性上の表記であることをここで記しておきます。
では、何故私がこのようなツイートをするに至ったか、幾つかの体験を振り返ります。
新宿東南口で行った『未来を変えるための市民と野党党首街宣1023』にて私は司会を務めました。
最初にスピーチをしたのは、子と暮らす女性でした。
夫婦で育休をとり、夫婦で育児をするという当たり前のことを、当たり前にできる社会にしたいといったことなど、生活の実感から生まれた生き辛さを語った素晴らしいスピーチでした。彼女は、男性主体の社会を変えるべきと問いかけました。
スピーチの前、ステージ裏で何度も練習している姿が印象的でした。
彼女のスピーチに対して、SNS上で誹謗中傷を含む沢山の批判コメントが付きました。
誹謗中傷に関してはここでの引用は避けますが(もしも本人がここを読んだ場合のフラッシュバックを考慮して)、
「男性社会?それこそ男性差別だ」といったコメントから、
「女性が子育てに専念できる社会に変えないといけないですね」といったトーンポリシングまで、
女性がただ真っ当な主張をするだけで、それを抑制するように潰しにくる。
それは女性だからそうしているんだと、私は感じました。
私を含む男性のスピーカーに比べて、女性のスピーカーに対して批判的なコメントが異常に多く、女性が声を上げることに対して嫌悪感をあらわにする人たちがいることをあらためて実感しました。
SNS上でもそうですが、女性と男性が全く同じ意見を言ったとして、女性は批判され、男性は受け入れられるという状況を目にします。
また、女性が批判に対して反論を行うとさらに批判が増大する。
何故怒っているのか、その原点を無視され、とにかく主張を抑え込んでくる。
男性である私が書いているこのnote自体も、男性主体の社会の中で扱われ、機能していくので、根本的な解決に至らない(それを分かった上でなお書くしかない)。
『みんなの未来を選ぶためのチェックリスト』の記者会見ではこんなことがありました。
質疑応答の時間になり、ある男性の記者が手を挙げました。
「このチェックリストは、見出しが立たない。わざわざ記者を呼んでおいて、回答についての詳細な分析もないのでは記事に出来ない」
と我々に向けて記者は言いました。
これまで幾度も取材を受けたり、記者会見を行ってきましたが、ここまで上から目線の記者ははじめてでした。
この日記者会見に臨んだ登壇者は私を含む5名で、そのうちの4名が女性でした。
“このチェックリストは、メディアが争点にしないような問題も政党に投げかけて、各政党の問題意識を確かめるとともに、回答を見た人がそれぞれに受け止め、投票の参考にしてもらうためのものであり、私たちが答えを出すものではない。
見出しを立てるのも、回答を分析するのも記者の仕事であり、私たちが用意をするものではない”
登壇者の町田彩夏さんが記者に向けて返すと、
彼は語気を荒げながらさらに続けしました。
「それならば私も厳しいことを言わせてもらいますけど、メディアの立ち場から言わせてもらうと、それじゃ全然ダメです」
会場が異様な雰囲気となる中で、
町田さんが今一度冷静にこのチェックリストの意義を説明しました。そして同じく発起人メンバーであり登壇者の長島結さんも彼に向け続けました。
「あらためてこの場において、特定の、所謂、ある年代以上のおじさんたちが司っている”国会”というのは日本社会に重なるものなんだなということを実感いたしました。ありがとうございました」
長島さんのこの言葉の意味を彼がどこまで理解したかは分かりませんが、
配信を観ていた方々が、この記者の発言・態度は登壇者の女性たちへのマンスプレイニングだと投稿して、SNS上で瞬く間に広まっていきました。
マンスプレイニングというのは、(男性の)見下したような、自信過剰な、そしてしばしば不正確な、または過度に単純化された方法で女性や子どもに何かについてコメントしたり、説明したりする、という意味の言葉です。
登壇していた私も同じように感じていました。
登壇者が男性ばかりだったら記者の発言や温度感は変わっていたと思います。
特に、町田さんの発言に食ってかかる態度は明らかに若い女性への威圧的な行為でした。
SNS上では、町田さんや長島さんの毅然とした対応に賛同の声が寄せられました。
とても心強いと感じた一方で、
「言い返せてすごい」
というのは、
「言い返せないといけない」
と表裏一体となってしまう怖さも感じました。
男性社会の中での女性の戦い方、というような話に落とし込みたくないと思いました。
長島さんのあの言葉は、そういった根本的な社会構造に向けられていると感じたからです。
無意識の脅威についても書こうと思います。
私が関わった3つの街宣は、トランスジェンダーの方や夫(仮放免者)の在留資格を求める日本人配偶者の方など様々な生きづらさを抱える方々に登壇して頂きました。
特に女性にも多くスピーチをして頂きました。
街宣が終わり、片付けている時、毎回登壇者の女性のところへ、知り合いではない見知らぬ男性が話しかけてきました。
話しかける側は、ただスピーチに感動してそれを伝えたかっただけかもしれません、しかし、どういった内容であれ、話しかけられる側はその場から動くことも出来ず、危険を感じていました。
街宣という特殊な環境の中で、いかに関係者をケアするかというのは課題でした。
自分自身も普段、無意識の脅威として、人を脅かしていないか考えるきっかけになりました。
女性が多く参加してくれた東京8区の街宣『VoteForWomen1027 #女性の声が政治を変える』では、事前に警備や声かけのスタッフの配置について議題に上りました。
その中で印象的だったのは、
警備にあたり、“女性を守る”的なメンタリティは不要という言葉でした。
これは本当に大事なことで、その前提を理解せず腕をまくり出す男性がこの国には多くいること、それこそが男性主体の社会を作ってしまっているということに、男性は気づかなければいけません。
女性は守るべき対象、という認識が、結局は構図を作ってしまっている。
ただトラブルや危険を回避するために動くことが重要。ただそれが重要なんだと、あらためて感じました。
社会運動を通じて感じたことは、
女性や、トランスジェンダーなど様々なセクシャリティを持つ方たち、外国籍の方や在留資格を持てない方たちが、いかに社会から踏みつけられているかを知りました。そして、その人たちが声を上げること、ただ真っ当な暮らしを望むことを拒む人がいるということ、誹謗中傷にさらされ続けていること、その根っこには男性主体の社会があるということ、それを政治が覆っていることを知りました。
この国では、選択的夫婦別姓も、同性婚も、LGBT平等法も何も実現していません。
この国に、差別や不平等など無いと思っている人は今すぐにその考えを捨ててください。
おじさん(大人のシスジェンダー男性)は、自分達がこの社会で特権的な立場にいることを自覚して、まずその立場から飛び降りなければいけません。そこから始めないと、この国の問題は何一つ解決せず、ジェンダー平等の議論の土俵にすら立てません。
私は今回の選挙期間、多忙ゆえ家事がおざなりになってしまい、パートナーに負担をかけてしまいました。
逆の立場になったときに家事でパートナーを支えるのはもちろんですが、
生活の中で、自分自身が平等を実践できなければ何も意味がないなと痛感しています。
私は、まだ問題の入り口に立っただけです。私もまた、これまでの人生で沢山の人を傷つけてきたと思います。このnoteも至らない文章であると自覚しています。
学び、毎日自分自身を問い直していこうと思います。
私と同じ、おじさんたち、一緒に変わりませんか。