東山魁夷展に行ってきた

 9月23日。酷暑の季節の終わりが見え始め、風が一段と涼しさを増した。山種美術館で行われていた東山魁夷展に足を運んだ。三連休の最終日である今日はこの展覧会の会期最終日でもあり、美術館には多くの人が来ていた。人混みのなかで絵画を鑑賞するのはあまり好きではないが、ここは帝都東京、仕方がない。少なくともこの人混みは群衆ではなく、しかし絵画を鑑賞しようという目的を一応には共有しているのだから比較的無害である。

 山種美術館はオフィスビルの中にある小さめの私立美術館だ。ビルの一階に受付やロッカーなどがあり、階段を下りた地下一階に展示室とミュージアムショップがある。展示室はやや広めの部屋と簡素な狭い部屋の2つである。東山魁夷展はやや広めのほうの展示室の三分の二程度を使っていた。残りはコレクション展である。

 東山魁夷。おそらく最も有名な日本画家であり、多くの風景画を残している。彼が画家としてのキャリアを歩み始めたのは1929年。新進気鋭の時代を軍靴の足音が聞こえるなかで送った。40年代は戦争に加えて家庭でも苦難の連続であったそうだ。戦後になると一転して風景画が評価されるようになり、国民的画家としての道を歩む。最も知られるのは特徴的な群青色「東山ブルー」。風景全体をつつみこんでしまうような深い青色である。

東山魁夷「緑潤う」

 東山ブルーは、私にとって何かが心に共鳴する色だ。「不思議なまでの深み」で片づけたくない、切実な震えを感じていた。あの青は何の色なのか。素人ながらに考えて、感じ取って、ある一定の答えを出したかった。

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 有明海は汚い海ではないのだけれど、作り替えられてきた海であることは確かだ。透明でもない。遠浅だからなのか、あるいは有明海を上から俯瞰して見たことはそこまでないからか、私の記憶の中ではマリンブルーではなく銀色だ。日が当たれば輝き、日陰ならば少々使い込まれた銀食器のような色彩になる。
 「対岸がある」というのはどうやら一般的ではないようだ。私が知る海は有明海と瀬戸内海だから、海を見ればその向こうには必ず岸が見える。海を見るときは岸があることを期待する。というよりむしろ、私にとって海を見るとは、落ち着いた波音を聞き、磯の香りを鼻に受けながら対岸を眺めることであった。それゆえに、対岸が見えない海は未完成の感がある。東シナ海や響灘であれば、対岸は見えなくとも対岸の記憶は見える。正確に言うと、対岸の記憶を宿したモノを探すことができる。日韓航路の船、漂着物、不審船を警告する看板などがそれだ。関東に来て太平洋を見るとき、同じようにモノの記憶を辿ろうとしたが、できなかった。対岸と行き交うモノが無いのだ。茫漠と、薄ら寒い。太平洋は対岸との関係を渡す「海」ではなく、土地を飲み込むほどに巨大な塩水の塊として現前した。
 有明海の向こう岸、大牟田にはうっすらと化学プラントの姿がある。その向こう、空との境界をなすように山が見える。山の色は青である。草いきれの青々しさではない。光が散乱した青。遠くに霞んでいるからこその青である。実際に大牟田に行ってみれば、岸の先には広い平野があるとわかる。三池炭鉱の残滓、炭鉱から経路依存的に発展してきた工場群、宅地、農地。様々な景観が広がっている。その平野のさらに後ろに青い山はある。大牟田から見ると木々の緑が眩しいのだけれど。
 空は何色だったか。必ずしも記憶の中の空はスカイブルーではない。山陰の育ちというわけではないのだけれど、薄曇り、白、と言われたほうがしっくりくる。ここ最近の青空は太陽からの直接攻撃だから、嫌いだ。私はオーブンで焼かれる丸鶏よりも、白の薄い毛布に包まれて眠る猫になりたい。

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 魁夷は自然を写生することを原点にすえ、諸国の自然を巡ったという。物それ自体ではなく、風景に関心があったのだろう。だからこそ諸国を巡り、諸国に題材を求める必要があった。日本の風景には遠景の山を欠かすことはできない。遠景に山がないのは、私の知る限りでは関東平野と根釧台地くらいしかない。東山ブルーを「遠景の山の色」だと感じることは、そう筋が悪いことではないだろう。

 東山ブルーを、記憶の内にある対岸の山の色と重ねることで得られた郷愁。しかしそれだけでは、私の心の動きを説明するに足りなかった。魁夷の絵が呼び起こした郷愁の裏には、安堵感と一体となった、しかし同時に荒涼とした寂しさがあるように感じられた。自傷する精神が、微かに顔を覗かせたと言っても良いかもしれない。

 ふつう、「我」と「汝」は正対する。この正対する二者は対等であり、確立した個と個のぶつかり合いが関係となる。社会のネットワークは、その正対する関係の束でできているという。しかしこの正対する個が取り結ぶ関係は、極めて抽象化されたモデルであり形而上学的なものである。
 「我」と「汝」が何らかのやり取りを交わすとき、必ず物的な基盤からは自由たり得ない。例えばレストランで食事をするとき、そこには隣のテーブルの客がいる。思念的には全くやり取りがない他者も、音を介して、匂いを介して、空気を介して、はたまた病原性の細菌やウイルスを介して、物的に影響を与え合う。私たちがこの世界に存在するとき、常に何らかの存在(それは必ずしも人間に限らず、他の生物やモノも含む)と空間を共有している。しかしコロナ禍がなければ、あるいは別段の危害を加えられなければ、我々はレストランで隣の客を意識することはない。意識の上では、彼らコンパニオンは不可視化される。コンパニオン、すなわちその場を共有する者。望むと望まないとに関わりなく、私たちの存在は常に不可視のコンパニオンの存在に囲まれている。

 魁夷は「風景」を描いた。彼が描く「風景」には、動物がほとんど登場しない。魁夷は山を木々の集まりとして描く。木の一本一本は、まるで雪山で冬の寒さに耐える白樺のように、幹の一本一本が美しい。それは溌剌とした生命の美しさではない。彫刻のような造形美の世界である。あるいは森の中を流れる川を描いても、そこには立派な枝振りの大木、奥に川、木々。動物は画題たるカワセミが一羽飛ぶばかり、カワセミが狩ろうとしているはずの魚はいない。川面の表情にも、魚は不在である。

 魁夷の絵から受けた荒涼たる印象は、この無生物であるように思う。夏の山を描いているのに、動物も虫も、気配を感じられない。徹底した静寂と静けさが画面を支配する。その画面では、鑑賞者と画題のみが正対する。徹底的なまでの、コンパニオンの排除。画題と正対し、空間を同じくする他の全てを外に追いやる。魁夷の「風景」は極めて形而上学的である。具体的なものを写実的に描いているのに、その根底にある存在論の哲学は極度に抽象的である。

 東山ブルーは遠景の山の色だと言った。遠景であれば、たしかに画題と空間を共有しない。コンパニオンを排除した画面を現前させるには、遠景である必要があった。その意味で魁夷がブルーを、あの色合いを選んだのは必然だったのかもしれない。

 何者とも存在を共にすることのない世界に惹かれるなら、冬の北海道はまさにその画面を構成するはずだ。雪、白樺、稀にキタキツネ。氷河でも良いかもしれない。澄み切った寒さの世界。氷河は白だが淡く青い。東山ブルーは氷河の青でもあり得たのか。

 しかし魁夷は本州の、九州の、風景を描き続けている。コンパニオンは本来そこに「居る」。私たちはこの世界に生まれ落ちてしまったときから、必ず無数コンパニオンたちに取り囲まれている。私たちの内部にも、コンパニオンたちはいる。私が存在し続けるかぎり、彼らから逃れることは出来ない。コンパニオンとは道連れである。

 しかし魁夷の絵の中だけは、明白に彼らはいない。コンパニオンがいない世界。それは夢想だが、果たしてユートピアかディストピアか。少なくとも無数のコンパニオンたちと常に存在を共有し続けるのは、私には疲れるし耐え難い。この感情は常に厭世と結びつく。だからこそ魁夷の絵には安堵する。安堵すると同時に、厭世と結びついた諦念、傷をも呼び起こす。青色が迫ってくる。しかし青を掴み取ることは出来ず、透明なブルーの光に包まれるだけである。

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