ハリポタのアプリ広告で思ったこと
最近、ツイッターを使っていると広告にハリーポッターのパズルゲームが出てくることがある。それ自体は正直公式かどうかあまり気にしていないのでどうでもいいのだが、少し思うところがあった。ので、少し書き散らそうと思う。
以前、ハリーポッターの舞台が行われる際に、ハーマイオニーというキャラを黒人の俳優が演じるという事となり少し議論が生じたことがあった。多くの方にとって、ハーマイオニーというキャラクターは一般的にもっともよく知られている映画にて演じていたエマ・ワトソンの様相を想起することが多いだろう。しかし、作者であるJKローリング氏による話では、ハーマイオニーというキャラクターは作品中では白人であるという設定はなく、肌(人種)による違いはないと言っていた。
ハリーポッターはそのほかの有名なマーベル作品などのマンガベースのものと比べて、元となるキャラクター像が存在しない。小説中の人物であるため、作品中に出てくる断片的な素材によって、各キャラクターの存在が確立されることもあるがそれは完全な物にはなれない。つまり、読者側からすれば、ある程度の制約はあるものの基本的に自由にキャラクターを創造することができる。
しかし、ゲームの中においてはキャラクターの容姿無しで物事を進めるのは難しい。そのため、このような小説ベースの作品のゲームを作成する折には、何かしらの偶像的な容姿を用いる必要が出てきてしまう。このハリーポッターのゲームにおいては映画において各俳優が演じていた際の容姿の立ち絵が使用されている様相を呈していた。
このゲームに対して何にモヤっとしたのかというのも、このキャラクターを偶像化している点なのである。映画はあくまでもハリーポッターという作品を形成するものの一つでしかなく、映画に出てくる各俳優が演じる姿はあくまでも解釈の一つにしか過ぎない。しかし、このゲームしかり、一般的にも映画におけるキャラクター容姿が完全に作品本来の容姿であるような考えが主流となってしまっている。
黒人の俳優と登用然り、大衆において共有されている価値観からずれたものに対して疑問や、異議が出ることは仕方ないことではある。しかし、本来の作品を考慮すれば、ハリーポッターの劇中のキャラクターを想起する際に俳優の顔を想起する方がナンセンスなのではないかと思う。
大衆においてなじみやすく、常に共通認識化した内容のイメージを使用することは万人にとって受けがよく、なじまれやすいものとなると思う。だが、物事元となるイメージが存在しないものに対する想像力の欠如、多様性、寛容性の喪失につながる可能性が少なからずともあるのではないかと思う。
たまには、文字だけで構成された自由な世界に出かけるのもいいかもしれない。