文は人なり
こんにちは、Yusonです。雪が降っています。
今日は「文章と人柄」について考えてみたいと思います。
日記、小説、論文、感想文、ちょっとしたメモからラブレターまで。
時代がデジタルに進んでも、まだまだ人は文章を書く生き物であるようです。
同じ情報やストーリーを伝えているはずなのに、書き手によってその表現が大きく異なる、というのは珍しくありません。それはつまり、人によって「見えている/捉えている現実」が様々なのだ、という見落としがちな盲点を炙り出しているのだと思います。
書き手がいれば、当然、受け手もいます。
どんな「名作」も受け手の感性にマッチしなければ、それはその人にとって、「印象深い文章」ではなかったということです。「合う・合わない」の問題。
色んな文章を読んでいく中で、書き手の「声」が聞こえる文章、ってあるんだな、と気付きました。
その人の想いや願い、情や執念…。人間としてのあらゆる「生の感情」が込められた文章は、物言わぬ文字の連なりの中に、多様で鮮明な「声」を含んでいます。
どんなに「正論」や「ためになる教訓」が書かれていても、そこに「声」が込められていなければなんの味気もなく、無味乾燥な文章になってしまいます。
少し視点をひねると、Characterという英単語には「性格・気質」という意味の他に「文字・書体」という意味もあります。つまり、その「文字 (文章)」には、その人の「性格」が反映されているということなのかな、と考えてみても面白いと思います。
また、一昔前まで、「字が綺麗な人」はなんだか好印象を持たれていましたし、未だにボールペン講座が人気なのは、「品のある字」が「性格としての品」と関係している、という認識を多くの人が「ふんわり」共有しているから、かも知れません。
以前、ある方に「Yusonの文章は綺麗だよね。」と褒めてもらいました。
うれしいな、という思いと同時に、「でも、綺麗なだけな文章ってどこまで人の胸を打つのか。」という疑問も湧きました。ひねく……物事を分析することが好きなのです。(笑)
真っ白な用紙を前にしたとき、どこまで自分の経験と感動をそこに滲ませることが出来るのか。私の「声」はどこまで実物と大差なく届いているのか。
あれから一年半ほど経って、氣になるところでもあるのです。
*次回の更新は1/26です。よろしくお願いします!
憂鬱な月曜日が始まる前に、私の記事を読んで「あ、水曜日くらいまでなら、なんとか息出来る気がしてきた」と思っていただけたら満足です。サポートしていただいたら、大満足です。(笑)