メモのような日常と最近の共通解答
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不平、不満、愚痴、エトセトラ。
負の感情にばかり囚われて、悶々たる日々を過ごす人がいる。
「純粋な私」にはその氣が無くても、彼らの感情が移ってしまう。まるでパンデミックに流行中のアレのように。
精神免疫力が弱っていたり、体調が優れないときほど、それらに「侵入」される。自他の区別が曖昧で心優しい人ほど、周囲の気分に振り回されやすい。一度沈んでしまえばどこまでも落ちていく。ネガティブは重力と相性がいい。そしてここは地球である。
その「不安」は誰のものなのか。自分に明白な理由があるものでなければ、それは他者から「うつされた」ものである。ピュアな鏡としてのあなたに、他者が綺麗に反映された「感情的結果」なのである。
ネガティブは悪なのだ、というチープな議論をしたいわけではない。それは時にどこまでも深く、人生の意味を考えるために必要な条件でもある。
しかし、だからと言って、毎日を明るく楽しく幸せに過ごそうと努力している人々の足まで引っ張って欲しくはない。「今はみんな大変だから…」という理由は、他者を必要以上の不安に落とし込む正当な理由にはならない。
「みんな苦しんでいるのに、あなただけ幸せなのは許されない」という変な同調はすぐさま燃えるゴミに捨てちゃえ。そして、自分の中の「他者」がぐちゃぐちゃ喚いた時は、ちゃんとハーゲンダッツを食べること。約束だよ!
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秘密のお話をしますとね、心の中に「滝」をイメージしているんですよ、はい。
そりゃあもう、激流ですよ。ざーざー流れてて、マイナスイオン大放出!みたいなね。
そうすると段々色んなものが流されて、浄化されるんですね。
淀む水にアク溜まる。目を閉じて、是非一度お試しを。
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雨の日はオシャレだ、と氣付いたので、レインシューズを買ってわざと水溜まりを踏んだりしている。じゃぶじゃぶ足踏みなんかして、嬉しくなる。子供の頃の安心感を追体験しているのである。
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親、友人、パートナー、子供、上司、恩師、後輩…。
周囲を見渡せば、何かしらの「役割」を担った他者がいる。そして自分も同時に「他者としての誰か」である。
彼女彼らはどこまで必然的なのか、はなはだ疑問である。別に誰でもよかったのに、どうして出会ってしまったのか。
恐らく。
人は「何かしらの問題・課題」を解決するため、人と出会う。そしてその問題に一番ふさわしい人が割り振られる。
つまり、どんな関係においても常に、「今自分はこの人との関係から何を学んで、気付くべきなのか」という視点に立ってみると面白い。「親」ではなくて、「親役としてたまたま割り振られた人」と見なせれば、自分と彼らを許せるようになる。
だから、無遠慮な上司だって、有難すぎて仕方ない。(笑)
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「怒り」には反転作用がある。
猛烈に怒りがこみ上げること、腹正しいことに気づけたらチャンス‼
「もう無理!耐えられん!私はこんなことしたくない!」ということの真逆をすればいいだけ。コインの裏表。
それが多分、あなたのやりたいことだったり、世界があなたに望んでいることなのでしょう。
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自分自身と世界の状況を、ぐるぐる眺めながら考えていた。
私はついにガンダムを観ていたし、頭と心のバランスだって取れていた。今なら何か大事なことを思い出せるのではないか、と密かに期待していた。そして季節は夏至を迎えたばかりだった。
人は弱くて不完全なんだと思った。
国際連合みたいな親戚の叔母も、酔いながらにこぼしていた。
「最終的に人間は、どこまでいっても裸で抱き合うしかないんだ」と。
嗚呼……みんな、愛されたいのかと悟った。
それは刹那的なロマンスとしての欲求ではなく、「母性」に包まれたいというもっと根本的な欲求だと思った。
何も持っていなくても、誰かより優れた存在でなくても、ただ自分がそこに「存在」するだけで認められ抱きしめてもらえるという安心感。そこにみんな飢えている。
誰かが愛してくれるのを待っててはいけない。
自分がボロボロなら、まずは自分が自分の「ママ」になること。
ちゃんと復活して、少し心の余裕が持てたら、誰かにちょこっと優しくしてみること。
そうしたらきっと、いわゆる「運命の人」があなたに手を差し伸べるかもしれません。
憂鬱な月曜日が始まる前に、私の記事を読んで「あ、水曜日くらいまでなら、なんとか息出来る気がしてきた」と思っていただけたら満足です。サポートしていただいたら、大満足です。(笑)