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高円寺の馬橋地区散歩

秋の休日、気持ち良い晴天だったので、高円寺の自宅マンションを出て高円寺の馬橋地区を久しぶりに散歩してみました。
私、今は杉並区高円寺北3丁目のマンションに住んでいますが、私の生まれは杉並区高円寺北4丁目です。かつての自宅は40年くらい前に父が売ってしまい、一回、立川に引っ越しましたが、高円寺への愛着が捨てがたく、すぐに私一人が高円寺に戻って今も住み続けています。

さて、そもそも高円寺という場所は、江戸時代の高円寺村(東側)と馬橋村(西側)からなっており、私の生まれ在所は昔で言えば旧馬橋村にあたりますので「馬橋人」であるというアイデンティティもあります。
住所表示としての「馬橋」はもうとっくに無くなってしまいましたが、馬橋地区には、まだそこかしこに「馬橋」の名称はしぶとく生き続けています。生活の中に「馬橋」は生き続けていると言ってもよいかと思います。

馬橋小学校
馬橋キリスト教会

まずは何といっても杉並区立馬橋小学校。私の母校でもあります。春は校庭に咲く桜が見事で、「♪夢も膨らむ窓近く、咲けよ平和の山桜」と校歌にも歌われています。そしてそのすぐ近くにあるのが馬橋キリスト教会。私の生まれる前からある歴史のある教会です。

今も残る鬱蒼とした馬橋の林と小道
そこにある古いお屋敷

その先には、私がもっとも昔の馬橋の風景を今も残しているのではないかと思う林と小道があります。史書に「馬橋は昼なお暗し」と書かれているように、鬱蒼とした林で晴れていても太陽光があまり届かず、今も昼なお暗いです。大都会である高円寺のなかで、ここだけが異空間のたたずまいを持っています。
なお、ここには今も古いお屋敷があり、その周りの林は杉並区保護林になっています。

祠のある追分


鳥居と祠


その近く、分かれ道(追分)のところには古い祠が今もあります。以前、近所の方に「この祠はいつからあるんですか?」と訊いたのですが、「さあ? 私たちが住む以前からあったので、全然わからない」と言っていました。謎の祠です(稲荷社かな?)。ちょうど、道の追分にあるところがなかなか意味深いです。昔は近くに馬頭観音もあったと思うのですが、今はなくなってしまったようです。残念。

子どもの頃、野球をやった道。マンホールがホームベースだった。

そこからぐるっと回って、小学生の時の馬橋小学校からの下校路を昔の自宅の方に向かって歩きました。そして、懐かしい昔の我が家(今は改築されており、もちろん他人の家)の前を通り、子どもの時に近所の子どもたちと一緒に野球をやった道を通る。道でやる野球なので、狭いですからセンター返しがみんなうまくなった。

そして、我が馬橋最大の知識人である故・竹内理三先生(東大史料編纂所名誉教授)の自宅前を通り、今でも「竹内理三」の表札は掲げられているのを確認しました。子どもの頃、近所の人から「竹内のおじいちゃん」と呼ばれ、髪の毛がもじゃもじゃでビン底眼鏡をかけてモモヒキ姿で庭の草木に水をやっていたりする風采のあがらないあのおじいさんが、実は日本中世史研究の権威で東大教授だったと知ったのは大学史学科に入ったあとでした。

気象研究所を囲んでいたコンクリート壁の一部(以前はずっと高かった)

竹内邸から馬橋公園になっているところを横目に進むと、昔の塀が見えてきます。かつてここには気象研究所があり、その周囲は高いコンクリート塀に囲まれ、容易に中を見ることができませんでした。
小学生のときは、「きっとショッカーの基地があって、悪い研究してるんだぜ」と友達同士で話して、無理やり塀に登って中を見たら、広大な芝生の敷地に僅かに点々と少しの建物だけがあったのを憶えています。「こんなに広いんだったら、野球やらせて欲しいなあ」と思ったものです。

馬橋駅が出来るはずだった場所(中央線と馬橋通りが交差する)

そして、大正時代に中央線の駅になりそこねた「幻の馬橋駅」から青梅街道と早稲田通り(かつては大場通りといった)に延びる馬橋通りに出て、そんなこんなで自宅マンションまでもどりました。1時間ばかりの地元をめぐる旅でした。