食レポ|めぐろ三ツ星食堂の正油オムライス
無性に食べたくなるオムライスがある。「めぐろ三ツ星食堂」の「正油オムライス」だ。目黒の中心部を抜け、白金方面に五分ほど歩を進める。硬質なビルが建ち並ぶ中、「めぐろ三ツ星食堂」は雨宿りでもするかのように、ひっそりと軒を構える。数多くの植木鉢が置かれ、店先を緑色に染める。ブルーグレーに塗られた木造の外壁にアンティーク調の白い窓枠。スタジオジブリの作品に登場し、今にもつえを突いた老婆が現れてもおかしくはない、チャーミングな外観だ。扉の前に置かれたチョークボードも人の温もりを感じさせ、その思いに拍車をかける。
午後の昼下がり。湿気の残る空気が肌に触れる。この時間になると、食材が底を尽きて、営業を終えていることも多々ある。“OPEN”の看板が眼に入った。「正油オムライスが食べられる」、その喜びが全身に広がる。開け放たれた扉を抜け、中の様子をうかがうように四方に視線を配った。女将さんと眼が合う。
「いらっしゃいませ」
「まだ入れますか?」
「どうぞ。ええっと、そちらの席で」
女将さんは扉の横にある、奥のテーブル席へと僕を案内してくれた。厨房に背を向けた格好で椅子に座る。右隣に男性二人組がいて、細い隙間を通るのは彼らに迷惑だと思ったからだ。微風が川面に触れるかのように、静けさの中にも前向きな雰囲気が店内には漂っている。「正油オムライス」や「オムエビカレー」を眼の前にして、心の高ぶりがにじみ出るかのようだ。それと同時に、僕は店内にいつも流れている凛とした空気が大好きだ。木の温もりであふれ、そこには人が介在している手あかのようなものも肌から伝わる。しかし、女将さんをはじめとしたスタッフたちの応対は丁寧でありながらも、客に迎合ばかりしない、高潔な姿勢が感じられる。それは提供する料理に絶対の自信があるからだ。自分自身の頭の中で勝手に妄想しているだけだが、この店の流儀のようなものに好感を持てずにはいられない。
「正油オムライスの男子もりで」
店に入るまでの道中、頭の中で無意識に復唱していた言葉を女性店員に伝える。僕の記憶が正しければ、最後に口にしたのは年が明けたばかりの一月だ。それから二週間おきに「正油オムライス」が脳裏に浮かび、静電気でも流すかのように僕の食欲を刺激し続けた。コロナ渦で世間が揺れる中、三カ月程度前に店を訪れたことも覚えている。営業時間内ではあったが、その時は店の前に掲げられた“CLOSED”の看板に心の底から落胆した。腹の中にできたクレーターのような空腹を埋めるための代替案が見つからず、途方に暮れたことを昨日のことのように覚えている。その時のクレーターは今も古傷のようにうずいている。欲を満たす時がきた。
もやしのサラダが最初に運ばれる。ごま油の風味が広がるドレッシングがもたらす奥行きにいつも小さな感動を覚えてしまう。完璧な前奏曲だ。目当ての「正油オムライス」は想定よりも早く、僕の眼の前に運ばれた。昼のピークであれば、もっと時間がかかるはずだ。小さなサプライズとともに、至福の時間が幕を開ける。
僕が幼い頃、母親から「料理は眼でも楽しめなくてはいけない」と教えられた。そのためには「色が大切だ」とも。「正油オムライス」はまるで宝石箱のようだ。光沢感のある卵は綿のような柔らかを口内に運ぶ。その上にジャクソン・ポロックの作品のような躍動感のあるマヨネーズが踊る。そして、その上には文字通りのアクセントとして映える七味が降り積もったばかりの雪のように華を添える。宝石箱の鍵穴にゆっくりと鍵を通すかのように、僕は手前の卵をスプーンでゆっくりと崩して口に運ぶ。たっぷりのバターとしょうゆでコーティングされたライスは口の中でうまみを拡散する。マヨネーズはそのうまみをほのかな酸味と甘みとともに加速させ、七味は舌に刺激を与える。それぞれが異なる音階を鳴らすように、その一口はよどみなく、絶妙な協奏曲を奏でる。「おいしい」。多くの雑念を振り払い、心の奥底から自然とその一言が漏れる。この味わいを経験できる、食欲と人生の素晴らしさを感じずにはいられない。
スプーンを動かす右手は止まらない。山崩しでもするかのように、ゆっくりと丁寧に「正油オムライス」で胃の中にすっぽりと空いたクレーターを満たしていく。途中でその濃厚さが若干くどく感じ、微妙にペースが落ちるのも愛嬌だ。「正油オムライス」はそれも含めてのエンターテインメントだと思う。宝箱の隅々を調べ、表面もおろしたての布で丁寧に磨く。僕はそんな思いで「正油オムライス」と向き合う。眼の前の皿は強風で運び去られたかのように、七味の一片も残されていない。これを満足と言わずして、何を満足と言えるだろう。