やさしい、について。再び。

読むことは引き続き低調だけれど、少しずつ考えられるようにはなってきた。

昨日、ある人とことばを交わして、少し立ち直ってきたこともあり、それから考えたことがあり、諸々を忘れないように書いておこうと思う。

前にも書いたが、このところ、私が「やさしい」と思うこと、思う人の、一体何が「やさしい」と感じるのかをずっと考えている。

やっぱり一番は、私のコアのコアの話を聴いてくれたこと、私のつらさを溶かし、解毒してくれたこと。そして、私のしあわせを祈ってくれたり、私のためにかなしんで何かをしてくれたりしたこと、だな、と思った。
生きる気力を失うようなことばかりだけれども、私はその人がこの世にいるのなら、この世界で生きていてもいいかな、と思っている。
自分のコアの奥の奥の最奥部を真に理解する人がいる、と心から信じられることは、ほんとうに生きる原動力になる。胸に刺さる詩やことばも、コアの中心に刺さってつながったと思えるからこそ、わかる、わかってくれる、と思えるからこそ、支えになる。

で、ここまで思って、ふと気づいたことがあり。

そういう「やさしさ」、話を聴いてくれて、見守ってくれて、わかってくれて、しあわせを願ってくれて、かなしんでくれる、っていうのは、思えば、観音さまとか弥勒菩薩とかの実践する「やさしさ」であって、観音さまや弥勒菩薩っていうのはまさに人にとってそういう希望と役割を担ってきたじゃないか、ということに気づいた(ほかの神々とかもそうなのかもしれない)。

そうしたら、なぜ世に脈々と信仰というものがあるのか、「やさしさ」を求める人のこころと、同じだけ裏側に存在する人のつらさ、苦しみ、そういうのも、なんだか全部まるっとわかったような気がした。

人は、ずっと、みんな、苦しかった。つらかった。誰も話を聴いてくれなかった。わかってもらえる相手なんて、どこにもいなかった。そういうことだ。きっとそうなんだ。

そうすると、私は今、主にこのネットの世界で、ことばの世界で、私のコアを知り私のしあわせを願ってくれる人がこの世に確かに存在すると現に信じられているのだが、このことは、ほんとうに奇跡的だし、一体人生何回分の幸運なのだろうかと、なんて僥倖なのだろうかと、驚き、感激してしまう。菩薩的なやさしさに触れられる人生なんて、そうそうあるものじゃなかっただろう。すごいことだ。

そして、私が「やさしい人になりたい」と思っていることについては、そうなるとだいぶ無謀なことを思っているのだな、ということがわかった。
だって菩薩だ、そりゃあ、人には無理だ。なんだか笑えてくる。できなくてもしょうがない。

でも、それでも、できる範囲で、この世界で、ことばの世界で、誰かにとっての菩薩的な何かの、ほんの一部にでも、なれたらいいなというのはやっぱり本気で思う。
だって、みんな、苦しくて、つらいのだ。そして、みんな、ずっと、孤独だ。ならみんなでちょっとずつ苦しみを減らせたら、それはとても素晴らしいではないか。

高校のとき、担任の先生がしてくれた話を、いま唐突に思い出す。
背中にゼンマイがある人形たちの話だった。一人ではネジを巻けないけれど、輪になって誰かのネジを巻いてあげることはできる、というような話。

私の思う「やさしさ」は、これ。これだったんだな。

そして、やさしい世界の一部になりたくて、今日も誰かのコアを、ほんとうの入った文を読みたい。

というようなことが、わかった。

まだなんとかやっていける気がする。
何度かこれを読み直したら、ほかのものも読めそうな気がする。

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